新しいものを表示

@promenade11 あーなるほど。SNSを介したコミュニティ消費だってことですね。いや、私は逆で、昔は雑誌がコミュニティごとの消費だったんですよ。でも現代の若い人だと昔の雑誌がコミュニティっぽい相互参照の場だというのがもはや掴めないんだろうなと。30歳以下でわかる人が激減する感触を持ってますね。

つまり、異なる形のコミュニティごとの受容があるんだけど、それらを比較したり可視化の差異を見るような議論が、不思議なくらいに欠けているところがある。

@promenade11 新しい状況を論じる人が出てこない理由は、「作家論や作品読解をやる分には評論も研究もまとまりやすいが、通史、ましてやメディア状況を含めたものになると、とたんに精度や枠組みが難しくなる。雑談ならもちろんできるが…」みたいな壁があるからだと思う。また、特集形式は作家論や作品読解に適応的なのもあるかな。

あとは雑誌ごとのカラーやジャンル生成を論じる議論の枠組みが漫画研究にもそんなに蓄積されてないのが大きい。私は映画研究の知を経由してるので、作品読解も大事だけど、ジャンルのなかで作品をみないといけないという発想になる。

@promenade11 ざくっと逸話や体験談を語るのはできるが、まとまった総体を語る手続きが難しい、という難点があるのでソーシャルメディア以後の掴みづらさがあって、そこで「データでやれまーす」と自称する変な雑語りマンがイキリ散らす、という二極化が起きやすいっすね

@promenade11 ダヴィンチの頃のイシューで滅びたのは「漫画vs文学」といった評価軸かな。その途中で関口夏央がかつて影響力を持っていたことも忘却された(昔は谷口ジローと言えば関口の保守性と結びついた作品だった)。

Amazonレビューは追ってないなあ。ウェブ雑誌のコメント欄、ニコ動コメント欄も同じ枠でしょうけど、これらは基準作品とそのコメント情報を全部分析するぐらいにしないと、まとまった検証をしようがないんじゃないかな。あとは、「コメで〜って見て、他の作品を知った」といった逸話でまとめるぐらいしか手がなさそう。

@promenade11 Twitter&pixivは、新人漫画家にとっては漫画の広報をする場所って面がありますね。ある時期から定番化した。あわよくば媒体に引き取られて連載化を狙う、という枠。これはもう「話題になったTwitter&pixiv漫画とその目録」でだいたい輪郭がまとまると思ってて、まあ片手間に蓄積してるリストはありますね。

なお、Twitter以前のウェブ漫画はある意味滅びましたね。作品も残ってない。ONEとか天原、クール教信者、横田卓馬(女性作家の方はよく知らない)などの一握りの成功者が出る過程の「消えた媒介」みたいなものになった。

このマンと本屋大賞の前にはこのミスがあり、このミスとダヴィンチの出現が完全に下敷きだ、と最近掴めてきた。エンタメ小説や漫画を横並びで把握する、00年代以降の秩序はダヴィンチがやってた。

@promenade11 知るかぎり無いので、「ええ〜雑誌秩序を知ってて、その後のメディア状況にも適応した世代として自分が何かやらないといけないの〜?」と半ばドン引きしつつ、ここまで漫画論にコミットするつもりがなかったのに、知見を精緻化しているのが私ですわよ・・・

@imdkm 15年ぐらい前に批評空間をまとめたときは原著情報を脚注に送りまくったけど、こういう手間をかけるとめんどうになるから結局エピステーメーみたいな併記になりましたね。
w.atwiki.jp/aabiblio/pages/54.

@imdkm まじかー。手打ちの悪夢を回避できるのか>国会図書館オンラインサーチで網羅できそう

@imdkm わからぬ! やりだすと、単行本掲載情報を補いたくなるし、翻訳は原著情報を入れたくなるし、特集への記事と連載と特別寄稿とコラムとを分けたくなるし…

エピステーメーのときはこんなふうにした。
note.com/ttt_cellule/n/n23aa6b

千野のトーマス・パヴェル翻訳って、林がなんだか翻訳ラッシュになってるのと同じで、訳者やりたがる人が少ない状況を逆手にとって「問題発言・行動をした連中が翻訳で生き残りを賭けようとする」ロールモデルが生まれる現れなんだろうな

@promenade11 伊藤はその後10年代前半〜中盤ぐらいには現役感が薄れたけれど、その後の若手〜中堅で、通史記述と10年代漫画情勢を語るプレイヤーが現れれば、議論のつながりや参照文化の変容などを跡付けることも可能だったんでしょうけど、いまは漫画関係の人材は研究に吸い取られていて、現状に介入する構えがあんまりなくなってる…という感じ。

@promenade11 夏目いしかわ呉の漫画クライテリアが古びた、90年代までの現役性しかない、というところでまずは区切ればいいんだと思いますよ。
なので、80-90年代のヤング誌面創刊(ヤングマガジン、ヤングジャンプ、ヤングサンデー、フィールヤングなどなど)やモーニング創刊とかの流れまでのスター作家への着目まではフレッシュ、しかしアフタヌーン作家やガンガン系の出現やその後への感度がない、という感じになる。初期伊藤剛が執拗にあずまきよひこやガンスリを論じたのは00年代状況を論じて知見更新を図る狙いなので、この対比で理解できる。

@promenade11 いやー、むしろ呉と夏目というのは80−90年代において先行世代知識人の漫画語りを権威主義的だとして叩きのめした側なんですよ。たとえば寺山修司や天沢退二郎らが70年代ぐらいにおこなったのを批判して払い除ける仕草があった。その対抗として漫画文化全体を考えるような面が強い。呉と夏目が古く見えるのは語ってる作品と評価基準が90年代までが限界で、そのあとはついていけてないためですね。90年代まではむしろがんばって追いついてる方です。いしかわはコラムニスト的に振る舞ったのでエピソード語りがメインかな。
つまり、これは世代の差で共感対象じゃなくなるサイクルが起きる典型で、各世代が「年長世代はわれわれのこだわってる作品がわからない」と各世代ごとに殿堂入り作品を選ぶんだけど、リテラシーが世代ごとにぶつ切れが起きる、そしてその世代も20年経てば「こんな古臭い作品しらね」と嘲笑される流れになる。とにかくこればっかり起きるんですよ

@promenade11 その二つは言うほど対立してないと思いますよ。呉智英は90年代の雑誌ダヴィンチがエンタメ小説と漫画を総合してバイヤーズガイドを組み立てていく中で起用されたライターだという面もあり、ダヴィンチの作った流れこそがこのマンや本屋大賞の流れの前哨戦だ、という整理が可能なので。このマンはむしろ90年代末の河出のJコミック特集〜ユリイカの漫画特集〜文藝別冊の漫画号〜現在の小学館の漫画読本とあんまり差異化できてない。

@imdkm えっ、マジっすか。データもらえません? 私は創刊号以後の毎年の12月号巻末の総目次をコピってあるから、2005年ぐらいまでは持ってるよ。全部手打ちで揃えるのだるいなあという壁だけがあった。(現代思想も同じ)。

ユリイカ・現代思想の総目次一覧を誰も作ろうとしないから、だるいけど自分がやるか〜となってましたわ。

10年代は、キャンプ(ゆるキャン)、サウナ(サウナ道)、飯、温泉、旅などいろんな「カルチャー」参照&紹介漫画は生まれたのだが、前世紀末までの都市型カルチャーとは雰囲気が違っている。それは疲れを癒すからとか田舎に行くからだという点のみならず、映画・音楽・ファッションの参照が伴う「上昇志向と業界参入のオーラ」の有無で分かれる。

他方で、都市型カルチャーとセンスエッジが持っていた覇権は、そのままジェンダー&セクシュアリティ批評言説への感度にそっくり引き継がれている。そしてその裏返しとしてもろもろの業界のセクシズム体制、性加害側面への批判的検討が一気に進む過程にある。

かつての都市型カルチャーセンスとジェンダー&セクシュアリティ批評言説で共通するのは、一定の上昇志向と美的なものを含むエンカレッジ要素などだ。温泉やサウナ、キャンプにはそれらが無いので、かつての「カルチャー」と連続的に見えない、という印象が起きているんだろうと思われる。

だが、「カルチャーと漫画」として」考えるなら、上昇志向やエンカレッジと、必ずしもそうではないが別に現状追認ってわけでもない、という多元的な評価軸で全部総覧した方がいいんだろう、となる。

スレッドを表示
古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。