「推し」「陰謀論」がそういった宗教性を軸に分析的な切り口で提示されている時に、なんというかそれ自体に対する"共同幻想性"を強く覚えます。
たぶん「陰謀論」の方がそれが分かりやすいのですが、よくSNSで見る「陰謀論者」「ネトウヨ」「フェミニスト」的な言葉は、実際にそれに該当するのような当事者意識を含めても、ある種のネットミーム化が側面として際立っている感触があります。
いわば「陰謀論者」という概念を我々は集団的共有をしていて、その虚像は実像よりも存在感を放ってしまっている状態。それって、むしろ構造としては誰よりも陰謀論信者っぽい。
「陰謀論者w」って認識で画面の向こうと対話しちゃってる。本当は陰謀論者じゃないかもしれないのに。暇潰しで陰謀論を撒き散らしてる小学生かもしれないのに。
「推し」や「陰謀論」的な概念の宗教性
が社会学的に批評として語られているのをよく目にするのですが、
これは"「宗教」という概念の個別化、民営化"
の話だと感じています。
初期の頃の
かたまりさんの、もぐらさんイジりを見てると、
ふかわりょうさんが5時に夢中で、マツコ・デラックスさんに怒鳴られていた光景を思い出したりします。
ふかわさんもまた、慶応出身の実家太め芸人で、
マツコさんは新宿二丁目界隈を経由していて若い頃お金に困ってたエピソードを持っているタレントさんです。
よくあった展開として、ふかわさんが悪気は無いのだろうけど、視聴者にある程度リテラシーを求めるようなシニカルな笑いを提示した時に、マツコさんがマイノリティ代表的なスタンスである角度でのふかわさんの無知部分を糾弾してゆく様子がバラエティショーとして立脚していました。
空気階段の踊り場での、
もぐらさんが返し刀でかたまりさんをイジり返す展開は、そういった抑圧から生まれる群集心理的なダイナミズムをかなりはらんでいると感じます。
もぐらご祝儀裁判のアフタートークで逆転されて論破されたかたまりさんが最後謝ってしまうその瞬間に、
能力主義層の無自覚なブルーカラー差別
のようなものをお笑いに転換させた美しき醜さが水川かたまりの可愛げとして輝きを放っていたと感じました
加えて、そこに空気階段というコンビのお互いのバックボーンが絶妙な捻れを生みながら不思議な格差性を育んでいるために、"イジるイジられる"というお笑いのフォーメーションの変容にコント的なストーリー性が発生しているんだと思います。
かたまりさんが、挙動不審リアクション芸を自覚的に使いこなせるだけだと、それこそアンガールズ田中さんのようにある領域でのピン芸人化という現象のみに留まるのだと思いますが、
もぐらさんは山根さんと違って、
典型的な"いじられしろ"を提示しているのです。
しかもそれが、
「借金」や「恋愛」というトピック。
これらの要素って空気階段の二人だけの要素に留まらずその価値基準そのものが時間や地域によってかなり乱高下する代物なのだと思います。
かたまりさんは、初期段階で相方としてキツめにそれらをイジる設定を施していたと思うのですが、
それは同時にもぐらさんだけをイジる状態だけでなく、似た境遇や背景をもイジっている状態に突入してしまっている。
で、たぶんそこに関しては、実家太め地方出身慶応中退ひきこもりというプロフィールが絶妙な割合で関与している天然感だと思う。
あと年代的な中心的視聴者支持層。
もぐらさん的な芸人の方が昔は多かった
という雰囲気的認識が空洞化してる。
こういった、"ピンポイントで常にそういう人をずっと演じている"的なコント芸人さんって、ドS的な性格としてのバナナマン設楽さん、過剰さに歯止めが効かなくなる人としての劇団ひとりさん、凡庸さと狂気性を綯交ぜにしたヤバい人物像としてのキングオブコメディ高橋さん、とかもそうだと思うのですが、かたまりさんのそれはもっと内省的な部分でソリッドな感触があります。
なんか、抜きん出たリアリティが面白さの中にかなり成分として確認出来ると言いますか…
対比として、
もぐらさんはデフォルメの上手さによる演技力(ダメなおじさんのモノマネが異常に上手い)
なのだけど、
かたまりさんは自己内省の発露のパッケージングの上手さによる演技力
(完成しきってない状態をある程度毎回同じで出せる能力、ヘタウマ的な演技力)
これは、アンガールズ田中さんのリアクション芸とかと非常に近いと思います
水川かたまりという芸人は、その亜種
コントにもその不完全挙動を持ち込める上で、ラジオなどの密室的領域でそれをフルスロットルで発動させて笑いに転換させるという、かなり狭い範囲での専門リアクション芸人と化している面白いバランスタイプだと感じています。
なんか空気階段のコントを見てると、
ボケツッコミの役割を固定させておらず、もぐらさんが「ダメなおじさん」的なキャラクターを演じている時は、かたまりさんはそれにうろたえる青年としてツッコミ役に終始している事が多いと思うのですが、
もぐらさんが常識人の立場の時のネタは、
かたまりさんはサイコキャラや理不尽な女性などのボケ側に違和感なくスイッチングしてみせます。
この時、かたまりさんの"しっくりき具合"には目を見張るものがあると感じています。
もぐらさんのキャラに幅のある演技力によって、見過ごされがちだと思いますが、かたまりさんのクセのあるキャラの体得具合もなかなかに凄いと思う。
むしろかたまりさんは"普通の人"の役でも"普通に見えない"
この感じを身体性に落とし込めているコント師ってあんまりいないと思います。
(例えば、春とヒコーキの土岡さんとか素の口調や挙動が元ひきこもりニートとして、かなりかたまりさんと近いと感じるのですが、かたまりさんのようにそれを使いこなせて笑いにしてはいない。かたまりさんの「サイコゥ!サイコゥ!サイコゥ!」というギャグは突発性的な衝動含めて自分の物として駆使できてる)
初期の頃の踊り場での、かたまりさんの口調や雰囲気は正直今よりもイジワル感があったと聞いてて思います。
ただ、その上で
それはそれでなんだか聞いてて妙な心地よさもあって、この世界観の延長戦での踊り場も全然成立していたんじゃないかな…とちょっとだけ想像したりできます。
スタンダードなコンビバランス、
深夜ラジオのベターなコンセプト、
とかで捉えると空気階段はクズキャラとネタ書いている方、という組み合わせで表面的には固定されたイメージ通りのお笑いパターンを展開させようとしていて、それがかたまりさんのイジワル感に繋がっていたのだと感じられます。
端的に言えば、
クズ(ポンコツ)芸人の模範的相方
として振る舞おうとしていたのだと思う。
でも、零れ出る人間味というか、もっと言ってしまえば"いじり芸の下手さ"が目立ってて単純にすぐメッキが剥がれて(あと、実はもぐらさんの方がキャラに反して"いじり芸"の才能が高かったというポイントも大分大きい)
今のフォーメーションになっていったという流れ
ただ、同時に少し覚えるのが
そういう構造だったとしても綺麗な切り替えだったなという舌触り。
水川かたまりは天然芸人でありながらも、
そのリアクションは"演出的"な人だなと感じます。
空気階段の踊り場 過去回を聞けば聞くほど、
水川かたまりが鈴木もぐらのことを
「借金」や「恋愛」方向でダメなやつとして
イジっているのが伏線回収的で面白い。
明日7/19(水) 22:00からは先週延期したラスアス2をはじめるよ!!!!!!!みんな遊びきてね
#温泉マークのオートチューン実況
ドラマ版ラスアスを見た直後の配信者がおっかなびっくりTHE LAST OF US PART IIをやっていく #1 https://www.youtube.com/live/2rLVfZOdNIA?feature=share @YouTubeより
なのでこれはもしかしたら本当の意味で、
ジャンダーギャップ指数弄り的な領域に立ち入ってるとも感じます。
(本人たち的にはもっと無邪気だろうし、そんなイメージが付き過ぎても困るのだと思いますが)
なんか、
動画のコメント欄とか呼んでいると
「もっと昔みたいに下ネタ路線薄めてくれ」
「タブーに挑んでてカッコいい」
的な評価もチラホラ見るのですが、それも含めてその要素もあった上で、でもあまりに馬鹿馬鹿しくて面白いです。
かき乱しと、
無邪気さを、不思議なバランスで両立させてる
マーキングかつマーケティング的
「お母さんヒス構文」や
「ギャンブル狂いの夫」に対して恋愛、親子問題に対する社会批評的な文章を書いていた評論家の方々にこそ、
「立ちション」「立ちションその後」を見て、ぜひとも感想を書いてほしいです。
そして、だからこそ
そういった大学お笑いから社会人芸人を経てフリーでM-1予選で活躍したのちに事務所設立、という達者感、トリックスター感、そして毒親お笑い、発達お笑い、を内包しているようなかき乱しを演出しつつも、
「ち○こ萎えさせ王」
「うんちVSうんこ」
「Tinder大学」
とかやってる時の面白さがめちゃくちゃ際立ってるし、こっちが本芸だと思う。
なんか、これってもっと単純に捉えてみると、こういう面白さって勝手な印象論なのですが、すごく"女子校の笑い"って感じなんだと思います。
性別という要素が本質性を生んでいるわけではないのだけど、ラランドのこういう笑いを見た時に個人的には感じるのは、
おぱんちゅうさぎの可哀想にさんの初期の動画
とか
フワちゃんの初期のYouTubeのポテト拾って食うやつとかおしっこ我慢勝負してるやつ
とか
なんかそういう内省に迫ってくるような発露の状態化、世界観化、みたいなヤバさを感じて面白い。
差別的な事を言えば、男ウケのマジで真逆のやつ。男性の言う「女子の下ネタの方がグロい」的なあるあるのもうひとつ向こう側。
性別を取っ払った時に、生殖器をただの内臓として扱う(でも性欲を無視してるわけではない、エロスを面白がってる)みたいな笑い。
なんかサーヤさんの面白さって、これを今自分の立場で提示してみる事でかき乱しを生んで、それがそのまま芸人としてのトリックスター性に繋がっている、という見方がスタンダードだとも感じるのですが、
でももっと、ただ単純に
「本当にどうしようもないただの下ネタ」を
結果として無邪気に行っているところに、
本質的な魅力があるんだと思います。
逆説的にその舌触りを覚えるのは、
さまぁ~ずチャンネルに出演した時に、いつものようにニシダさんのクズ弄りを行っていたら、大竹さんと三村さんが「いやまぁ、でもおれらも借金してたし、遅刻してたし…」と擁護と言うより自己反省的な意識で受け身を取り初めて、サーヤさんが「…ぇ?」って一瞬取り乱していたこととか、
東野幸治さんが自身のYouTubeチャンネルで「お笑い界のジャンルダヌク」という弄りをした時に反応が芳しくなく、そこから"タトゥー彼氏にビビる東野"という構図にした時にサーヤさんが多少イキイキしてきた流れとか、
そういった瞬間を見た時に
「世代差、性別差、子役だったというスペックなどによって勝手に達者キャラの椅子に座らされている」
という状況が生じている気がしてしまうのです。
で、その中でも特に感じる
"元子役的な空気の読み方"で自意識もろとも擬態しちゃってる気がする。
そういう意味では、太田光という芸人さんは、中田敦彦の松本人志への提言の話題の時に
「あっちゃんは"権威"に憧れがあるんじゃない?そんなものはお笑いに邪魔」(と言いながら微妙に松本人志の立場への批評にもなっている)
と言っていましたが、これは皮肉ではなく太田さんもある種の"権威憧れ"が見えかくれしているとは感じます。
"反権威"憧れ
とでも呼べるような逆説的価値高騰ポジション。
それは当然「道化」という立場なわけですが、太田さんの特異性はそれを"語り"によって構造解体をし、そのドサクサ紛れで自身をその特別地点に置いてしまう、という芸を獲得しているところ(田中さんという"疑似権威"を担保に)
そこに
「語れるけど、いざ取り掛かるとその構造解体芸を越えない」
という自己矛盾を抱えたまま、だけどもそれも自虐や批評を含んだまま"語ってしまう"事でお笑いとして成立される、というメタ演技によって聖域を維持してきたのだと感じます。
煙に巻くのが上手すぎるし、
ある意味での天然性を愛嬌として飼い慣らしている
チャップリンが街の灯での盲目の少女の残酷さや、独裁者でのヒトラーの滑稽さと愛着を描いてしまっていたように、
太田光の表現は、"芸人憧れ"という部分が一番魅力を放ってる。
あと、これは陰キャ陽キャ論争をさらに俯瞰で眺めてみて、なおかつセンシティブではあるので言い表し方がかなり難しくその上であえて簡単に言ってみようかなと思うのですが、
このコントを見ると、
南海キャンディーズ山里さんが昔称賛していていた「やれたかも委員会」を思い出しました。
こういう球種だけではないのだけど、こういう構造に設計してみてコントの関係図式的に一人を追い込む流れを作って発露を促す(そのために人数をこの配置にしてみている。蓮見さんはそれでいてツッコミの立ち位置)
これは山里亮太さんがコントを書けたとしたら、こういう芸風になったであろう表れだと感じます。
そこから覚える舌触りは、つまり描こうと思えば「弱者男性」「女性のモノ化」を面白さに持ち込める。ただ、それになり過ぎない意識はしてるんだと思う。
めちゃくちゃ感想として難しいから気を付けたいのですが、そういう意味ではダウ90000というコントグループは「エロス」に対して、実はかなり直接的な表現意識に取り組んでいる集団だと思う。
「陰キャのおれには眩しくて刺さる」
「今しか見れない若い男女のキラキラ最高」
とかも搾取的だし本人達はある程度意識して避けたり振る舞ったりしてるんだと思う。役者集団。
ラランドYouTube「HISTORYFAMILY」「お母さんヒス構文」あとサーヤさんの紙ストローツイートとかが話題だしもちろん面白いのですが、
「立ちション」というコントが一番ヤバ面白いし、このコントが話題にもっとなる世の中になってほしい