バナナマンおぎやはぎの「epoch TV square」
劇団ひとりバカリズム東京03「ウレロ☆未確認少女」シリーズ
とかと
ワンシチュエーションコメディという形式上比較して見てしまう部分もあります。
脚本構成がある程度しっかりしてて、その上で少量のアドリブを見せたりしてゆくような水準を無意識に求めてしまうのかもしれません。
もしくは、そもそもそういう事ではなくて
「ヨルタモリ」的な領域を意図しているとも感じます。
だとするのならば、やはり個別でコントとトークをある程度分けて放流してほしい気持ちになったりもします。(光代社長がちょっとそうなってる)
YouTube的なアルゴリズムによって芋づる式に視聴してゆくプラットホームでのコンテンツ形式にあんまりなってない感触。
週一での深夜テレビ放送でサムネイルやうっすらとした話題の方向性だけYouTubeっぽくなってる、というような状態なのかな。
田中さんの安定感はコント芸人のそれとして健在してると思う。
その上で、
テレビの話というYouTubeは「ワンシチュエーションコメディ」という形式を取っていて、これはどちらかと言えばテレビタレントの方の爆笑問題でのイメージを前提に番組を組み立てているのだと思います。
ただ、それが"コントである必要性"を上記したような視聴者、ゲスト若手芸人が慣れも含めてあまり感じ取れていない気がします。
端的に言えば、
テレビタレントのイメージを持ち込むのなら、トークチャンネルでいいじゃん と思われている感じがする。
端から見ると、
"よくわからない拘り"に感じられているのかもしれません。
ただ、爆笑問題のコント好きからすると、
むしろ"そういう芸人"だという認識だし、なんならコントに拘っているけど内容はまだまだ全然トークに寄せちゃってる、と思う。
ただのいちファンが勝手な事を書くのなら、
「矢作とアイクの英会話」とか
「永野コントチャンネル」とか
「九月劇場」とかみたいな
コントはコント動画として上げて、
トーク的なパートは別で設ける
という棲み分けて見たい気もします。
コントとトークの境界領域が曖昧になってる。
スケジュール的にそうならざるを得ないのかもしれません。
もしくは、それが段々味になって良さになってくる感じもします。
太田さんがよく口にしている
「映画を撮りたい」
「シャボン玉ホリデーのようやコント番組がやりたい」
という目標としての物語性があった上で、
ただ同時に今のファン層やテレビ視聴者、慕っている若手芸人、スタッフとかが、あまりその太田さんの願望を認識把握できていなそうな雰囲気も覚えます。
個人的には、
僕は爆笑問題のコントの方が好きだったりします。
特に初期の頃のネタの「進路相談」や「人工心臓」とかのブラックな感じが好きだし、タイタンライブの原型的な「七福神」でのユニットコントも好きで、あと「爆笑大問題」「爆笑問題のハッピータイム」とかもよく見ていました。
そして、30周年記念ライブ
「O2-T1(オーツーティーワン)」も面白かったです。
ですが、正直なところを言えば「O2-T1」に関しては客層と内容が合ってないんじゃないか、というか漫才師としての爆笑問題、テレビタレントとしての爆笑問題、とコント師としての爆笑問題、日芸出身の映画や演劇活動コンビとしての爆笑問題とが、かなりイメージとして分離している事の表面化を感じました。
ある種の過剰適応とも呼べる進化があったのかもしれません。特に太田さんが。
爆笑問題のYouTube「テレビの話」
再生数的なものをテレビタレントとしての知名度とかと比較されてゲスト出演者にいじられがちな感じですが、
これって現時点で何とも言えないけれど、
爆笑問題太田さんのデビュー当時のキャラクターと今の漫才師としての人柄が変容している事とかがけっこう関与している気がしています。
元々はコント芸人なのだけど、
その地点に辿り着いた時にはコント芸人じゃなくなっていた、というような状態なのでは?
というか、おそらく
「ダサさ」みたいなものの参加人数に比例するような漠然とした概念の直接的な"共有"自体が、単純に難しいからその磁力が弱まっている(もくしくは用途が言語接続でしかなくなってくる)
って感じなんじゃないでしょうか。
コンテンツの中心的な面白さ(ダウ90000の場合はコント、ぐんぴぃさんの場合はYouTubeの企画性)と、
ブランディング含めたパブリックイメージ(若干操作が出来ない事によって波及してゆく事も踏まえた上での好感度や属性規定的なもの)が、
商品として分離している状態
という管理方法。
実際に
陰キャ陽キャかみたいな部分はどうでもよくて、
「それを話題に語られやすいか」が重要
さらにその語られやすさはタレント的な要素なだけでなく、単純に我々の日常での"コミュニケーション能力"とかに関わっている
むしろそれがスキル化してる気がしています。
ダウ90000蓮見さんのラジオでの「"陰キャ陽キャ論争"に対する回答」府に落ちる一方で、その外側で興味深いのは、「ダサい」というニュアンスは言葉として使いこなしていた事。
「明るい」「暗い」とかじゃなくて、
「陰」「陽」ってのがポイントな気がします。
単純に言葉の響き的なものも関係あるのだろうけど
(語源は『中学生日記』説があるそうです)
なんかRPGっぽい世界観が背景に見える。
「黒歴史」「邪気眼」とかそこら辺から引き継がれているような雰囲気を感じます。
論破的なエンタメとか、M-1グランプリみたいな競技漫才と呼ばれているようなお笑いとかも、観衆のその見方自体が"スポーツ"である前になんかRPGっぽい(格闘ゲームではない)
もっと言うと、ONE PIECE的な漫画っぽい。
「陰」とか「陽」って言い回しに"能力"感がある。
なんかなんとなく概念造形がぼんやり感じられてきました。
ある種の「単純化」機能が便利だから波及してる気がします。
話をダウ90000に戻してみると、彼彼女らがやってる事は既存のストーリー構築論を前提にハイコンテクストな事をしてるから
「キャラの2元論」で解釈したい需要が生まれやすいのかも。
あと、なんとなく掴めてきたのは…
「陰キャ陽キャ」の話は
ヤンキーとオタク的な分け方じゃなくて
SかMかみたいな分け方
血液型性格診断とかも、「何に分類されるか」や「実際の性格」とか、もっと言えば「その話題で盛り上がるか」とかの重要度よりも、
「"自己中"という概念」
「"几帳面"という傾向」とかがコミュニケーションの中で集団的に意識されてる(という事実の浮き彫り)が意味価値として本質性が高いのだと思う。
陰や陽でキャラクター性を区切る事が社会の中で『必要』とされてる、という事実
なんかニュアンスとして
「距離感」を保ってる感、ある程度の傍観を強いられている(もしくは求めている)感じがある気がします。「キャラで区切る」という感覚は。
ヤンキーオタクは「ファッション要素」が伴ってるし、ネアカネクラは「内省」の話だし、SとMは「リード、イニシアチブ」的な近距離感。
もしくは、「情報集約性」
"キャラクター"という解釈が前提共有的。
単純にポケモンとかの影響なのかな
なんか
「陰キャ陽キャ(という言葉)」も
「演劇的要素(に伴う集団的価値)」も
"コント(規定的コミュニケーションでのパターン実験)"のために存在している道具のひとつに過ぎない、というような感触があります。
例えば、オードリーの若林さんが「人見知り芸人」や「ラジオでの若林」等を場面によって使い分けたり自己言及する事によって相反性を生みつつ可動域を広げたりしてると思うのですが、ダウ90000的な領域はその振る舞い自体が目的化してるような感じ。演技の人達だから、というのはあるのだろうけども。
この感じは、
ニューヨーク嶋佐さんやラランドサーヤさんとかにも強く覚えます。
コンビの色合いとして「陽キャ芸」的な要素を孕んでいるからこそ、それをフックにした面白さを提示(するためにある程度"型"的な振る舞いを薄くディフルメ)している気がします。コント芸人の話術論。
"集団"を「キャ(人物属性)」で区切ろうとするのに無理があるのかも
この話って「ダウ90000がどうか?」とか「お笑いはマイノリティのものなのか?」とか、そういう事よりも、この「陰キャ陽キャ」的な概念がそもそも何なのか?という部分にやはり本質性があるんじゃないかなと感じます。
語りやすすぎる。ヤンキーオタク、ネアカネクラ、とかより群を抜いて。
なんかよく言われてた論調に
「陰"キャ"陽"キャ"だからキャラという表層的な属性規定なので、内省ではなくコミュニケーション規定についての概念(高まった社会性が自己規定を促している時代性の言葉)」
みたいな感じがあったと思うけど、今回のダウ90000論争は、もはやそこを飛び越えて前提になってる。
それぞれの視点でダウ90000という存在が陰キャにも陽キャにも見える、という俯瞰共有を踏まえた上で
「実際的な性格はどうなのか?」
「これをそう規定しうる人物やコミニティがそもそも◯◯キャ性が高い」
というような批評軸が参加人数分だけ発生してる状態。なんか説明書段階から個別カスタム的。
ダウ90000って名前が陰っぽい
はりねずみのパジャマは陽っぽい
この回良かった
飯尾和樹の『ずん喫茶』<小川駅>のこだわりマスターのコーヒーでホッとひと息~
https://tver.jp/lp/episodes/epkr9ryb7q