ビートたけしが浅草からテレビの世界に出てきて、今映画監督として大成しているのが、時代と主要メディア転換の流動に身を置こうとしたんじゃないかなぁ…という心情が感じられて良いなと思います。世代的な共有はしていないし、なんとなくの憶測で言葉にしているのですが。
もしかしたら、浅い視座に聞こえるかもしれないのですが、YouTuberが有名になってテレビに出ようとしてゆく運動に近いものを感じています。
かつての映画館の立ち位置は、
劇場舞台に対しての新規メディアだっただろうし、
その映画館も新規メディアとしてテレビが表れた時に旧態的な立ち位置に移行したのだろうし、
そして、そのテレビも新規メディアとしてのネットが表れた段階でゆっくりと立ち位置が世代交代を成されていったのだと、
ざっくりとそういう認識でいいんじゃないかなと思っています。
劇場(旧態)→テレビ(新規)→映画(中間領域)
みたいな着地点にビートたけしさんは狙って動いていたとも勝手ながら想像しちゃいます。
そういった天下人の現時点の生息地としての主要メディアを見てると面白いです。
松本人志がドキュメンタルをAmazonプライムでやってたり、
さまぁ~ずがYouTubeにけっこう力を入れてたり、
メディアとその中心時代性を感じます。
少し前のものですが、
ゾフィーのPodcast岡野陽一ゲスト回が味わい深くて面白かったです。
前編後編に分かれてて、なおかつしくじり先生出演を経てからの放送なので、いりくんだ構造なのですが
現代テレビバラエティでの何周もした"クズキャラ芸人いじり"を提示されて、お笑いにおける「蔑みとは何か?」を考えさせられます
個人的閲覧用「無意味グラフ」まとめ
https://togetter.com/li/2253668
と、ここまではそういう表面的な部分の話
で、蛙亭が独特だなぁ…と感じているのは、
なんかああいうニュアンスを保持させたまま、"可愛げ"のデフォルメがうっすら成されているところだと感じています
なんか適当に言えば
キモさが分かりやすくないキモさで、
その見る側の解像度に委ねられている種類のキモさのまま、若干それを受け手が受け入れちゃってるという妙なグロテスクさが構造としてずっとある感じ
そして、それを自覚的にやってる感じがしないところ
無意識レベルの部分をお笑いにしてる気がする
それがなんか、飛躍した言い方をすると
「男性性(ショタ的な側面含む)のモノ化」と
「愛玩性(見下しと許容)の批評目線化」的なものを同時に感じてしまいます
中野さんはオモチャにされてる事を受け入れてるし、
岩倉さんはオモチャにも自我があるんだという部分を面白がろうとしてる自責の念を含めたグロテスクな目線を使いこなそうとしてる
そんな印象があります
蛙亭のネタを見て
おぱんちゅうさぎの可哀想に ❗さん的な世界観を感じました
蛙亭のキングオブコントでのネタ
なんかここら辺に、ラランドや3時のヒロインとも違う、あとAマッソとかとも微妙に違う
文化圏としての新機軸のある面白さの追求を感じています
女性芸人的なくくりで見る事に本質的な意味はないのだけど
でもやってる事の球種と仕上げ方が女性芸人だからこそ発祥できてるニュアンスな気がします
こういった動画を見つけました
今はフリースタイルダンジョンの審査員やNHKの天才ビットくんのMCなどのイメージが強い、いとうせいこうさん
元々は大学お笑い的な地点から出発しているピン芸人です
おそらく本人が意識的に「お笑いっぽさ」を消してゆく事で現在の地位を築いている事に感心すると同時に、当時(80年代?)としてはこういったタイプの漫談が新しかったんだな、と歴史的資料としても価値も感じます
ジョイマンという現象から捉える「自覚」と「言語」による「存在」への価値規定性 https://togetter.com/li/2242023
少し前のものですが、
ゾフィーのPodcast岡野陽一ゲスト回が味わい深くて面白かったです。
前編後編に分かれてて、なおかつしくじり先生出演を経てからの放送なので、いりくんだ構造なのですが
現代テレビバラエティでの何周もした"クズキャラ芸人いじり"を提示されて、お笑いにおける「蔑みとは何か?」を考えさせられます