佐久間さんの面白さの根幹部分は
「『自分で自分をいじっている』
という状態の、『俺』を見ろ」
みたいな、欲求によって形を成しているものだと感じます。
その営み自体は、
"一人(自己内省)" で成立する代物なのだけど
それを"見てもらう他者"が必要ではある。
ただ、その他者を形式や構造で、ある程度自ら意識的に作り出しちゃったり、他者をコントロールしようとしちゃってたりしている(実際、それが予期せぬ反応やプレイ環境に繋がったとしても、関係はない。その外圧自体が自己内省への刺激に繋がってゆくだけだから)
という面白さなのだと感じています。
「キス我慢」も「マジ歌」も「あちこちオードリー」も「トークサバイバー」も「ナミダメ」も、全部自己内省の発露へ向かう環境設定が、基本的な骨組み。
「ママチャリ王選手権」も、他のマニアックさと比べると、身近かつ自家発電的な面白さだなぁ…とも感じます。要は、ずっと縛りプレイ的。
佐久間宣行さんは
「いじられる裏方」として表に出てきてる。
芸人側が、つい、いじってしまうんだとも思います。
冗談半分、本気半分で、批判的に語られる瞬間も多々あると思うのですが、それ自体が「佐久間宣行」という概念の強化に繋がっちゃってる。
そういった事から朧気に感じるのは、クズという概念はそれに裏打ちされた常識がまず存在してて、それを破る行為の事を指していて、
その常識という名の信仰心がそもそも無い、
その外側に居る存在に対しては無効なんだなと思います。
逆を言えば、尾関さんのこういうエピソードとそれを周りにいじられて出来上がってるキャラクター像って、ある種芸人としての自覚を感じもします。
なんなら、相方である高佐さんの方が、いわゆる「お笑い芸人として」という宗教の熱心な信者感を覚える。
高佐さんの自意識の強さから規定される振る舞い、それの反動によって尾関さんのクズキャラ的なものをいじられる事への許容と能動って拍車が掛かっていったような気もします。
ギースのイメージとしては、それって身に付けなくてもいいんじゃないか と尾関さんが思ってた時期もあるはずです。
若干の切羽詰まってる感によって尾関さんのムーヴって生まれてる気もするので。
その要因は高佐さんの空気感が震源地になってる雰囲気を時たま感じます。
鈴木もぐらさんのような、根本的な家庭環境の経済的困窮によって掲載されたクズキャラとも違うし、
岡野陽一さんのような、芸人になってからの借金とそれをピン芸人として話芸に昇華する事で根の怠惰を許容させてるわけでもないし、
マミィ酒井さんなような、むしろ実家が裕福でだけども学生時代にいじめられてた事などが影響してて人柄としての愛玩性に乗っ取った甘え上手とも違い、
コロチキナダルさんなような行ききったおおらかな天然をキャラとして自覚し使いこなそうとしつつも失礼な言動行動を悪気なく働いてしまうという感じとも異なります。
なんか尾関さんは、どこまで行っても自分の事を本質的には「クズと思っていない」
というか「クズでも別にいいし、クズとかクズじゃないとかあんまり興味がない」
みたいな感触を覚えます。
なので、他のクズ芸人と違って
広島カープ好きや、怪獣好き、キャラ弁作りなど、そういうややキャッチーな要素を能動的に芸人として押している、という特徴があります。
むしろクズが邪魔になりそうな範囲の仕事を自分から打ち出している。
そこら辺に尾関さんの浮世離れ感がある気がします。
クズに対して距離がある。
すごく語弊のある言い方になってしまうのだけど、元々厳格な宗教家のうちに生まれ育った事とかが関係してる気がします。
なんというか、「開き直る」ポイントがいわゆる一般的なクズ芸人より前提段階で確信犯性を持って実行されている感触があります。
単純に言えば
「バレても別にいいと思ってる」感がある。
あんまり言い訳してない
なんなら精神的な自己弁護をしていない
自分の心の中でも言い訳してないといいますか
芸人のトークとしていじられてるから返している、ぐらいの定型業務感がある
なのでちょっとサイコパスっぽさが生じているのですが、厳密にはそういう冷めた人間性なわけでもなくて
「人間関係」や「社会性」みたいなものへの"虚空意識"的なものが強いのだと思う
それが元々は熱心な宗教家だった
というところに繋がってそう
なんか尾関さんのクズエピソードには「解放性」が感じられるのです。
(もちろん、経済的に追い詰められてたり、仲間内で責められてたりはするも思うのですが、そもそものそれに至る行動への罪悪感がやや薄いんだと思う)
なのでクズというより、尾関さんの中での常識で「セーフ」だからそういう動きをしている、というような思考回路なんだと感じます。
面白かったです。
ギース尾関さんは「クズ」というより「変り者」だと思う。
https://youtu.be/-XQRJSftquI?si=2SSJoq6c4hrDLV7K
九月さんについて書きました。
もしよかったら読んでいただけると嬉しいです。
#九月 #小保内太紀 https://note.com/shi_ryoku/n/ne27b795b9032
ニューヨークについて書きました。
もしよかったら読んでいただけると嬉しいです。
#ニューヨーク #嶋佐和也 #屋敷裕政 https://note.com/shi_ryoku/n/n0648578cc81f
タモリさんやシティボーイズの面々が、どのくらいその意識があったのか、最初からそういうアプローチだったのか、と言われると今のタレントと変わらないとも思うのですが、(むしろより軽薄な部分があったのだとも感じます)
そういう意味では神格化する事もないのだけど、だとしても上記したような中島らもさんや上岡龍太郎さんのような面白さってどこに行ったんだろうな…と思ったりしてしまいます。
シンプルにそれがテレビ番組という領域を生息地にしていないというだけかもしれません。
増えきってしまった「お笑い」「芸人」というジャンルの中で内部回転的にそういう文化や個人が表れだしているとも思います。
大学お笑いや素人大喜利文化などはその好例と言っても過言ではないと思います。
ピン芸人の九月さんや街裏ぴんくさんとかはそこに該当する気配がするし、関西圏ではないですがNISHIMOTO IS THE MOUTHの西本さんの喋りとかはアングラとバラエティを繋ぐような面白さがあると感じています。
経済学者の成田悠輔さんが時たま見せるカルチャー方面への理解とかもそこに近いゾーンを感じます。
洒脱と土着
そういうものはもはや地域性や知識性ではなく、誰しもがそれぞれで個々人所持していてその出力加減なのかもしれません。
ラリー遠田さんが作家のオークラさんの著書を紹介している時の浜口倫太郎さんのリアクションがそこら辺の空気感を把握できる気がして興味深いです
厳密にいえば、関東圏でもそういったサブカル文化的なものは純粋に受け継がれているとも言い難いと思いますが(このPodcastの話では「お笑い」というポイントに絞られて語られているし、なによりそういう語られ方をしている事自体が、"「サブカル」が「お笑い」に内包されていった"という現象結果を物語っているのだとも思う)
スネークマンショーやシティボーイズ、タモリ辺りのボードビル的なお笑い文化は、爆笑問題やゴッドタン周りのメンツを中心に一応形式的な模倣は成され規模感としてはメインストリームに食い込んでいる状態なのだと思います。
と、同時にそれは体型だった歴史に裏打ちされたリベラルアーツ的な建築物というよりは、より実践的なテクニックを駆使して仕上げた純度の高い物真似芸的な美しさの極みにも感じ、すごく雑に言えば、ブラックジョークとして土着性が薄いものが多いと思う。
かと思えば、その反対側にはダウンタウン的な庶民性が大衆と伝統を牽引していて、その全体像は狭い範囲で両極化されてるような感触。
いとうせいこうさんが生き証人的に話されていますが、あの時代のいわゆるテレビバラエティ番組に出演するタイプの芸人ではないタレントやインテリ文化人、知識人の文脈の中でも「サブカル」と呼ばれるような領壁はネットの台頭とともにゆっくり溶けてゆき、とくに関西圏発のそういう俗物的なニュアンスを含めて背負っていた中島らもさんや上岡龍太郎さん的な存在というのは、なんとなくの印象ですが途絶えてしまっているようにも感じます。
松尾貴史さんやみうらじゅんさんのような立ち位置の人は、そういった雰囲気の地点を経由して出没していたんじゃないかなと思います
それは単純に時代的、経済的な前提土台を担保に巨大な地方都市としての関西圏にそういう「サブカル」的な人材が集中していたのだという分かりやすい原理だとも思いますが。
最近、中島らもさんの動画をYouTubeで漁って遡ってみています。あの洒脱な喋りが癖になって、らもさん自体に中毒性が発生しているような錯覚をしてしまいます。
ああいう80~90年代(?)頃の関西的な土壌のサブカル、アングラカルチャーみたいなものって、やっぱり今だとどれくらい残っているものなのか気になります。