と、ここまではそういう表面的な部分の話
で、蛙亭が独特だなぁ…と感じているのは、
なんかああいうニュアンスを保持させたまま、"可愛げ"のデフォルメがうっすら成されているところだと感じています
なんか適当に言えば
キモさが分かりやすくないキモさで、
その見る側の解像度に委ねられている種類のキモさのまま、若干それを受け手が受け入れちゃってるという妙なグロテスクさが構造としてずっとある感じ
そして、それを自覚的にやってる感じがしないところ
無意識レベルの部分をお笑いにしてる気がする
それがなんか、飛躍した言い方をすると
「男性性(ショタ的な側面含む)のモノ化」と
「愛玩性(見下しと許容)の批評目線化」的なものを同時に感じてしまいます
中野さんはオモチャにされてる事を受け入れてるし、
岩倉さんはオモチャにも自我があるんだという部分を面白がろうとしてる自責の念を含めたグロテスクな目線を使いこなそうとしてる
そんな印象があります
感覚的な言い回しをしてみると かつてアンガールズが「キモかわいい」 と形容されてましたが、 蛙亭は「かわキモいい」みたいな領域を描いているのだと思います
カエルって
イラストとかだと可愛いく描かれているけど、リアルでよく見るとけっこう気持ち悪くて、でもその気持ち悪さを一回受け入れるとあの目玉もヌメヌメした皮膚も剥き出しの内臓みたいなフォルムも、なんか可愛く感じてくる
し、そういう生き物としての気持ち悪さって人間としての自分も他の生物から見たら異形のキモさがあるんだろうな…とぼんやり感じてくる
そんな魅力が蛙亭のネタにもあるなと思いました