途中、永野さんのライブを
「信者に向けてやってる」とツッコミを入れていましたが、その縮尺と規模を変えたものを基本的に井口さんも行っているのだとは思います。
(オリラジ中田さんのテレビ批判芸とかもこういう仮想敵対)
これらから感じ取れるのは、井口さん批判ではもちろんなく、ましてやゴッドタンやバラエティ番組のマンネリ化への憂いですらなく、
冒頭に述べた、"加虐性"の一周
我々、視聴者、観客が、なにをサディスティックな潜在意識として求めているのかが変容したんじゃないかなと、ぼんやり感じています。
個人VS構造
みたいなものに共感や侮蔑を注ぐ快楽割合が高かった。今までは。
集団VS俯瞰
みたいな領域に暴力性や宗教っぽさとかも含まれながら昇華してる気持ちよさが出来上がりつつある気がします。最近は。
河本さんの流れブった切りすら、井口さんの統制の中に鮮やかに組み込まれてゆく様子に安心感すら覚えてしまいます。
井口さんがマジギライをハックしたのか、
マジギライが井口さんに乗っ取られたがっていたのか、
最後ビンタされずに終わってしまった事が、一番のダメージになっているかのような、そんな複雑な表情の井口さんを見て、鈍痛のようなエグられを擬似的に感じながら笑ってしまいました…
話をマジギライに戻します。
で、そういう角度の付いたいじられ芸を見せる場から、段々とテクニカルな側面を魅せてゆく面白さに変わっていったと感じてて、
有吉さん、東野さん、鈴木拓さん辺りが
企画に乗っかりつつも解体したり批評的な目線での論破を加えたりしだして、
日村さん、澤部さん、中岡さんとかが
完全なるパターン化を美しくこなしていったり(味変として別室から相方が副音声を入れてたりしたけど)、
どんどん形式が出来上がってゆき、それに伴って女性タレント側の脚本量が増え、掛け合いのシュミレーションも高度化されてゆき、それが出来てない事すら嫌われ側の芸人がフォローしたり司会側が別軸を組み立てたりしてセーフティネットが張られ、
なんか最初の露悪リアクションショーの地点からは遠くなってきているのを感じていました。プレッシャーの種類が変質していってる。
そして、そこで井口さんの登場。
しかも、近しい同期芸人メンバーを引き連れて。
プロレスとしてほぼパッケージングされてる状態に近いものを。
なので、むしろ井口さん側にエグめの批評軸が発生してる。
キモ芸ダサ芸的なもののリアクションの方が薄くなってて、それを担保に美しい毒を吐いてる(しかも、割りといつもの)
一周したと思いました。
小木さんが最初に居た地点。
そして、マジギライ5/1ですが
こちらは最初期はたしか小木さんが嫌われ側の席に座っていたと思います。
なんというかイメージなのですが、ゴッドタンって実験的な企画の時プレーンなアクターとしてまず小木さんを設定してみる事が多い気がします。(仲直りフレンドパークとか、喧嘩の途中に踊り出すやつとか、マジ歌にベッキーが出たやつとか)
そのあとはアンガールズ田中さん、フットボールアワー後藤さん、アンジャッシュ児嶋さん、南海キャンディーズ山里さん、と続いていってて
なんか漠然とした印象なのですが、
「受け身」の上手い人達のショーだった記憶があります。
キモ芸とかダサ芸みたいなものを自分から打ち出しているタイプのいじられ芸人さん達が、女性タレントにいつもよりエグめに"自分のダメなところ"を弄られて、その時の本気の凹みを隠しながらいつものようにリアクションを取れのるか、的な文脈の追い込みが仕掛けとして組まれていたと思う。
(その中で偶発的にキャバ嬢あいなさんが発見されて、めちゃくちゃ芸人批評的なキャラに成ってゆく、という中期での分岐要素があったとも思います)
ロンハーの格付けとかも、似たような要素があって互換性が高いと思います。
あれもまた、初期は「格付けしあう女たち」として、女性タレント同士がお互いを品評しあうようにトークを交錯させて、その瞬間に滲み出るような人間性を司会のロンドンブーツが弄ってゆきながら組み立ててゆく"露悪リアクションショー"が源流だったと思います。
ふと零れる言葉の刺やギスギスした空気、人間関係の中でのリアルマウント、打破されてゆくヒエラルキー、そういったものを傍観的に面白がっていた企画構造だったと。
ただ、それは歴史を重ねてゆく中で「格付けしあう男たち」「格付けしあう若手芸人たち」「格付けしあう売れっ子芸人たち」という感じの変遷を辿ってゆき、その過程で非常に"バラエティプロレス"的なニュアンスが磐石になっていったと感じています。リアルファイトじゃなくなった。
いろいろな理由があると思います。上記したようなコンプライアンス意識、ロンハーという番組自体の立ち位置、ロンブーの年齢やキャラ変化、主要タレントの潮流、明石家さんまが恋のから騒ぎを終わった時に「バブルの頃の女性はぶっ飛んでて面白かった」という理由を語ってたのも何かが関係してそうな気がします。
端的に言えばトレンドは変わったと思います。
ゴッドタンのマジギライ「ウエストランド井口」回を見ました。面白かったです。
と同時に、嫌っている側のメンバーがほとんど井口さんと関係性の近い芸人さんばかりだったのが気になりました。
これは、この企画が長きに渡ってて回を重ねるごとにそういった人選へ移り変わってきた傾向があるとは思うのですが、今回井口さんが最初に言及していた通り、"女性タレントが一人しか居なかった"という状態は初めてだったと思います。
ここである程度ベターな視座を言うのであれば、やはり近年のコンプライアンス的な角度から、女性へ悪口を吐いてゆく構造が前提の企画(それがバラエティ番組内で芸人が弄られてのカウンター発言だとしても)に対しての炎上リスクへの防御策…とかだとも捉えられますが、
もう少し細かく捉えようとしてみると、
"この席に井口さんが座る"とこまで来たという、バラエティ番組に置ける加虐性が一周した事も意味しているのではないかと、個人的に感じています。
かと言って、アンタッチャブルのザキヤマさんとか程「素のトークを誇張演技でキャラクター化させてそのままどの場面でも基本的に同じように展開させる」というわけでもありません。
過剰演技化はあまりしません。
有吉さんは
「コント」と「トーク」の割合の中で
「役割」と「キャラクター」の変容が
すごく絶妙で、その間を捉え続ける事で面白さを提示してゆくのです。
なんというか"こういうキャラ"とか"こういうノリ"という成分だけで許させない。という感じ。
まず破綻しないし、脱構築的ではあるけどそれが建設されるまでがすごく長い。あんまり瞬間芸術的じゃないと思う。
これに近い感じは、伊集院光さんの深夜の馬鹿力でのトークとかで、たまに展開されたりしていると感じます。
あとアルピーの平子さんのお昼の番組対応してる感じのやつとか。
タレントイメージにまで突き刺して「うっすら設定のコント」を行っている。
あだ名芸の先に待っていたものは、実態の無いキャラクターイメージの言語化ゲームという、風間蝮親さんにしか出来ない面白さだったと感じています。
こういったシームレスなコント能力みたいなものは、いわゆる漫才師的な「素のトークを誇張演技でキャラクター化させてそのままどの場面でも基本的に同じように展開させる」やり方と異なっていて、
例えばゴッドタンのレギュラーメンバーである、おぎやはぎや劇団ひとりとかも、そのような場面や対人によってキャラクターを微妙に変質させて面白さを提示してゆきます。バイキングで小木さんがコメンテーター化が促進されたり、劇団ひとりさんがゴールデンの番組では大人しくなったり、そういった傾向の表れであると思います。(だからこそ"解放区"としてゴッドタンや三四郎ANN0が存在しているのだとも思います。それは芸人さんだけでなく視聴者の潜在的な要望としても)
ただ、そういった関東コント師的な特徴で見ると、有吉弘行という芸人さんは上記したメンバーのそれよりも、"場面や対人によってのキャラの変質"が薄い。むしろ毒舌という要素は、自分のキャラクターを相手が把握している事を前提とした上で踏み込んでゆくトーク展開のテクニックなので性質だけで見たら真逆です。
周囲の"悪ノリ"的な空気でキャラが促進されない。
主軸はあくまで有吉さん側にある。
この「うっすら設定のコント」を、場面や相手によって微妙に調節するというだけでなく、"タレントイメージ"的な部分にまで突き刺して運用させているのが有吉弘行という芸人の真価であると感じています。
そこに特殊性があるし、逆に言えば、コント自体の上手さ(さりげなさ)に関しては実はちょっと苦手意識もありそうな感触すらあります。
例えば、今回のラジオで言えば
「コント」という点に置いては三四郎の方が、可笑しさの提示がさりげないと思います(特に相田さん)。
素のトークも、ネタとしての漫才も、シームレスにボケ、ツッコミ、いじり、いじられ、メタ、ベタなどの役割と振る舞いを変容させながらも、全て"三四郎"というコンビの範囲内に収まっています。
むしろ常にずっと「うっすら設定のコント」を行い続けている、というような塩梅。
なので、ゴールデンタイムのバラエティ番組での小宮さんの立ち位置などが顕著ですが、ラジオの時と異なりリアクション芸人的な風味でキャラクター像が形成されて固定化されています。
これは視聴者や共演者などの需要としての"小宮"というキャラクターコントの全うであり、そしてそのコントの設定は番組を離れると(完全に分離することなく)降りる事が可能な代物になっています。
なので分人主義的な多人格を同時進行していると。
三四郎ANN0の風間蝮親回を聞いて、
有吉弘行という芸人は、こういう事が得意なんだよな…と思い出させられるように感じました。
よく語られる有吉評に「昔の頃の毒舌が売れてから弱まった」的な解釈の前提で進み「その代わり今はMCとしてのバランス感覚、サンドリでのタガの外しっぷりが凄い」という理解が一般的なのだと思うのですが、それも間違ってないと捉えた上で、
毒舌キャラも、売れっ子タレントの立ち位置も、もっと言えば猿岩石の時のアイドルポジションも、
全部、風間蝮親的な「うっすら設定のコント」をしたままトークを展開させてるやり方なのだと思います。
せいやさんはまず、動きでボケを提示してて、それだけじゃ何かがあまりわからず、フワッとしたコミカルさでなんとなく可笑しさを醸し出します。
それに対して粗品さんが規定的にツッコミを放ち、それによってせいやさんの一連の動きが総体化されて、「そういう事か!」的な解釈のもと、意図と面白さが発生し笑いを生んでゆきます。
これは、粗品さんがせいやさんの行為の本質性を言語で体現しているからこそ、その意味が客観視も含んで伝達されているという状態。
繰り返しますが、
せいやさんは核心に近付かない、ほとんど意見を言わない、事によってどう思ってるかがなんとなく感じ取られる。
粗品さんに言いにくいことを言及させて、自分は「お笑いとしてのキャラクター」を守っているという見方も出来る。
というような性質が、漫才師としても同じような状態で形を成していると感じられるのが面白いです。真っ直ぐ。
太田さんが法廷で繰り出したボケは、自己完結的だし、なんなら自分が不利になる行為をお笑い芸人として行ってるという感じなのだと思うのですが、
せいやさんの隙あらば笑いが取れるんじゃないか…という、ちょっとコントに入ってみる塩梅っていうのは、内容の陳腐さを踏まえているから問題視する程の事じゃないと言えど、上手くいってしまうと、それ自体が"許し"になるうる可能性すらある「キャラ芸」そのものだと思います(だからこそ、せいやさんはそこら辺にめちゃくちゃ敏感だしコントロールしているんだと感じる)
ここら辺の危うさというか、芸人としての漏れ出る色気みたいな文脈は、せいやさんが「いじめを克服したエピソード」を話す時に、感動的なヒロイズムを提示しながらも「自分はたまたまいじめを克服出来ただけ」という注釈を必ず付け加えるところにも表れていると思います。
芸人としてその話を持ち出しながら、ああいうキャラとして売れてゆく事の、見えない責任みたいなものから絶妙に距離を取っている…とも捉えられる。
せいやさんは常に振る舞いによって、空気を誘導し、キャラの補強を行う事が抜きん出て上手いと思います。
そしてそれは霜降り明星の漫才師としての役割分担に根差している個々の能力の天才性なのだと思います。
この梶原さんや岡村さん的な
「キャラとして振る舞えてない」という事をショーにしている状態(なので本質的には"振る舞えてないキャラ"だから振る舞えている)
って、霜降り明星でどちらかと言えば、
粗品さんの炎上気味の発言や態度とかの方が構造としては近いキャラ性だと思います。("あえて"の態度も含めて)
西野さんや矢部さんの方がツッコミという役割であれど、それに対して「面白味」を空気感として足して提示している。
そして、西野さんや矢部さんはせいやさんと同じように、相方にある領域での誇張演技を任せているからこそ、自己管理含めて"お笑い的な空気"を生み出せている、という点で近いと思います。それがボケかツッコミかの違い。
せいやさんのそういった、面白味の保持と振る舞いが一番出ていた瞬間は、Zoom騒動後のポケひみ、ではなく法廷で笑いを取ろうとした瞬間だと思います。
太田さんが空気読めないキャラみたいなのを前提としかながらヤバい人として行うギリギリ露悪お笑いみたいな行為、と違って
せいやさんのアレは、振る舞いとうっすらとした主張が、直結していると思う。
めちゃくちゃ"空気誘導芸"だと思う。
霜降り明星のカリスマ性は、キャラクターとして粗品さんから発してるのはもちろんですが、
それを中和しお笑い芸人としての国民性的なものを生んでいるのは振る舞いとしてせいやさんが担っていると思います。
このコンビバランスを見た時に感じるのは、
せいやさんのポジションの方が、その空気感の保持が難しいんじゃないかなと、いつも思います。
有名になればなるほど、キャラとしての面白みって絶妙な匙加減が求められると思います。誇張演技がわざとらしくならざるを得ない。でも、せいやさんという人は、人間性もある程度伝わらさせながら、芸人像もそこそこ崩さず維持してると思う。
これって、なんというか
「大人の意見」「ハングリー精神」「周囲を黙らせるほどの結果」「権威や大衆への政治的な表明」
などを限りなく脱臭しているから可能にさせてる共同幻想。
それらを、粗品さんに全部やってもらってる。
例えばキングコングとかナインティナインとかと比べると、せいやさんは梶原さんや岡村さん程、キャラから出てない割合が高いと思います。年齢とかも関与してると思うけど。周囲の空気感としても、せいやさんの面白味って「聖域」っぽさがちょっとある。梶原さんとか岡村さんって、もっと「面白キャラとして振る舞えてない」って事をメインの笑いにしてたりします。
逆説的に考えてみると、粗品さんの発言や振る舞いから、せいやさんの語らずとも滲み出ている考えや想いが伝わってくるような気がします。
別に完全に同じ意見というわけでもないだろうし、同じだとしても言い方考えてほしいと思っているかもしれませんが、
THE SECONDの腐し大喜利も
オリラジ中田さんの松本人志批判も
その話題に対してフワッと触れたり、過剰にガワの部分に反応にしたりして、基本的にはお笑いに持っていっているけど、むしろ核心には近付かない、意見をほとんど言わない、事によってどう思ってるかがなんとなく感じられるのが面白いです。
なんなら、大抵の視聴者は
粗品さんの炎上気味な姿勢に対して
せいやさんがフォローしつつお笑いの空気に変えている
という認識だと思うしそれは間違ってないと感じるのですが、反対に考えると
粗品さんに言いにくいことを言及させて
自分は「お笑いとしてのキャラクター」を守ってる
という見方も出来ると思います。
個人的にはTHE SECONDへの腐し大喜利とかもその文脈で面白かったと感じているのですが、構造的には、最上もがさんがUberEatsへの炎上ツイートをした時のような、背景への想像不足(というか、その上でそれを無視するというボケ)が世代的なものを含めて表出しやすいタイプなのだと感じます。
その発言や振る舞いが垂れ流される瞬間は土台の天然性が要因なのだけど、それも含めて「どう思われても構わない」というスタンスの演じきり(なので、本当にどう思っているかは別。そういう振る舞いが出てくる理由は他にあるのだと、勝手に感じています)
それも含めて粗品さんの才能だし魅力なのだと感じています。
騒ぐほどの事でもないっちゃないと思いますし。
南ちゃんが狂言、有田さんがプロレス、博士さんが政治、だったように、粗品さんが芸人的な場所以外で"演じきり"を発散出来るような地点があるとまた変わってくるのかもしれません(ギャンブルは演じきりではない)。
粗品さんにとって、毒を吐いたというより、そういうツッコミをした、という認識なだけだと思います。
なおかつ、その上で粗品さんはそれを「舞台監督」的なフォームで出力してゆく。
これも常々感じているのですが、粗品さんは漫才師として「外側」からツッコミを入れているんです。せいやさんという運動的なキャラクターのボケに対してその都度その都度、規定的にツッコんで視座を提示し笑いに変えてゆく。これはとても"演出的"だと思います。
自身が出ている側でありながら、せいやさんという中心的存在にスポットライトを当てる役割によって場を成立させてゆきます。なので、ちょっと構造部分に食い込んでいる。"演じきり"的な才能でありながら、外部に隣接していて参加者を募っている。観客ごとうっすら演じさせるような支配性が役割の中に組み込まれている。
これは、
ウッチャンナンチャンの南原さんや、
くりぃむしちゅー有田さん、
浅草キッドの水道橋博士さんとかと似た気質だと思います。
自身が型の模倣を芸としているので、観衆の盛り上がり含めて意識的な演じきりの促し傾向があるのだと思います。
これが毒舌的な文脈と絡んだ時に、内圧からの攻撃性を物理的に生んでしまうのだと思います。(それが魅力でもある。香取慎吾の両津勘吉に「キショかったわアレ…」って言っちゃうやつとか。外部の雰囲気をあんまり把握してない天然から来るものだと踏まえてても面白い)
あくまで、模倣する対象やゲームルールが存在していて、その中での新機軸という感じがけっこう常に充満していると思います。そして、それが凄く上手いのだと思う。言うなれば、それは"演じきり"の「才能」なのだと感じています。
(それは、せいやさんもそうで、せいやさんの場合は圧倒的な芸能史データーベースを保持しそれを"モノマネ"という形で瞬間瞬間の出し入れを行う事が出来る才能。これも演じきりのパッケージングとして現代的な情報処理能力だと思う)
大喜利の回答としての型のモノマネが異常に上手い
のが粗品さんの基本的な「才能」なのだと思う。
で、それは世代的な認識の差異も複雑にはらみながら評価されているのだと感じます。
「2Pカラー」とか「スリの銀次」とか、そこら辺のワードって例えばM-1審査員席に座ってる年代の人にはちゃんと伝わないと思うけど、観客のウケ方とかによって新規性を漠然と覚えるのだろうし、逆に霜降り明星より下の世代はワードへの理解が出来るからこそ、それをネタに組み込んでいる事自体(くりぃむしちゅー的な例えツッコミの存り方)が、イノベーション的なものだと不特定多数に感じさせれる状態になっている、のではないかと思うことが多々あります。
ワードの新しさが型の上手さと合致していると感じます。
なぜそう感じるのかと説明してみると、
粗品さんのネタやボケ方に、
ある種の「テンプレ」性を覚えてしまうからです。「型」とも呼べる。
非常に言語解説が難しいのですが、
粗品さん、もとい霜降り明星のお笑い芸人としての革新性はデータベース前提でのサンプリング大喜利的な漫才の文脈上でのシステム構築を成しているタイプだと感じていて、端的に言えばその「新しさ」の種類が「型版」の更新に比重の高さを覚えるのです。
くりぃむしちゅーの例えツッコミや、
東京ホテイソンの溜めツッコミ漫才的なものの、上方漫才側の到達点なんだと思う。
なので、大喜利の答えの「新しさ」と言いますか。
なんか
"「この範囲までも」「この概念までも」お笑いとして解釈しちゃうんだ"的なイノベーションではないんじゃないかと感じます。
ダウンタウンの漫才「クイズ」での
「さて、なんでしょう?」みたいな曖昧領域をそのまま提示する面白さとかではないし、
ツービートが「毒舌漫才」と称されたような、犯罪者とかまでも含めたあらゆる対象をネタ化させるアプローチ自体の面白さでもないし、
オードリーの「ズレ漫才」というツッコミの破綻をボケとしそこを機転に掛け合ってゆきそれによって際立った歪な存在「春日」を幻想として作るコンセプチュアルな面白さとかでもない。
霜降り明星粗品さんが良くも悪くも語られる時に、「才能」という言葉が用いられがちだと思いますが
その「才能」がどういった類いのものなのか
あまり把握されていない気がします。
それは視聴者側も芸人側も。
漠然と「才能」がある、と認識されていて、それによって発言や振る舞いが許されているところがあるんだ、もしくはその「才能」によって若くして売れたから天狗的な環境と葛藤が生じているんだ、というような状態に思われがちなんじゃないかなと感じます。
個人的には、それが微妙に違うんじゃないかなと感じています。
ざっくりと言えば
粗品さんの「才能」は、そういう発言や振る舞いを行う事が芸人的なキャラ演技の中に含まれている代物なのだと思う。
「才能キャラ」なんだと思う。