これ。
今のバナナムーンでのやらかしエピソードでいじられてる日村さんと比較して聞くと、要所要所で、設楽さんや及川さんの方がこのコントの役割として演じきりが弱かったり、興味の引き方が粗悪だったりして、ある角度では日村さんより"ポンコツ"に感じる。
今のダイエット失敗エピソードとかも日村さんのダメさを笑う構図だけど、あれもあれで、そこに対しての責めの強さの意識が常にうっすら感じられる神田愛花さんの過剰性を込みで面白がっている組み立てになってると思う。日村さんのいじられコントのプロ意識によって、神田さんのプライベートでの態度とかがうっすら漏れてる、とも捉えられる。我々はそれを気付かぬうちに享受しててそれを楽しんじゃってる。
キャッチー、ポップ、ファニー、ポンコツ、
でコーティングされてるけど、
その中核には、「これを面白がってる」という
コア日村があの垂れ目で笑っているんです。
なんと言うか、例えば爆笑問題田中さんのような明確なツッコミ芸のポジションなんだけど、時折天然や毒舌や、太田さんの炎上に薪をくべている、という要素ともまたちょっと違う舌触り(いじられ芸としては近い)
なんかもっと古い記憶を辿ると、
バナナムーンより前にやってた
「WANTED火曜日バナナマン」というラジオ番組で
今の日村さんへのいじり芸の原型となるような企画を行ってて、設楽さんが日村さんのプライベートでのエピソードを責め立てるようなバナナマンの十八番的なエンタメ構造を行っているのですが、
今と比較して聞いてると
なんか日村さんがヤキモキしている感じも伺えるんです。言い表しにくいのですが、「もっとちゃんといじれよ」的なニュアンスが言葉の端々から感じられる。
設楽さんが今みたいに司会者として売れる前段階なので、フワフワしてる部分が目立ってて、日村さんがいじられの立ち位置でありながら、それを繋いでいるような印象。
バナナマンのああいう「いじりトーク」って、
まず日村さんが前提としてコント的に乗っかっているから成立するんだな…
という事がわかる。
過去からの積み上げが今の関係性コントの完成度を誇ってるんだなと、
皆日村さんをポンコツと思ってるけど、自らその方向に持っててる行為によって形作られてる。
上記したドリームマッチでの組み合わせでも、ツッコミという受け身を取りながら相手の過剰性を引き出している技術だと捉えて見てみると、その面白みが変わってくると感じます。
一番その化学反応が成功していたパターンは
FUJIWARA原西さんとのコンビだったと思う。
審査員から評価こそされなかったものの、普段の原西さんよりアクセルを踏んでてフルスロットルでカオスに突入させていて、めちゃくちゃだったけど凄まじく面白かった記憶があります。
バッファロー吾朗竹若さん
オリエンタルラジオ中田さん
キングオブコメディ今野さん
との組み合わせでも、ボケ側の人たちが普段より相手をいじるような構図になっていて、そういう要素が引き出されているのが興味深かったです(特に今野さんが明確に奇人を演じる感が少し薄れてサディスティックな部分が強まっていたのが日村さんとの組み合わせならではだなと感じました。)
優しげでちょっとポンコツという
漠然としたタレントイメージで捉えていたとすると、日村さんのこういう支配的なスキルは気付きにくいと思います。というかそれを隠してさりげなく遂行させてる。
マゾヒズム誘導芸
とでも呼べましょうか。
ドリームマッチや、
くりぃむナントカでの「お笑いスイッチヒッター」という企画で、
日村さんは「ツッコミ」側の席に座ってる
のもそういう理由だと考えると頷けます。
日村さんはそのキャラクターやエピソードから"ボケ"的な立ち位置の方がしっくり来る視聴者が多いと思うのですが、
「受け身を取りながら相手の露悪、加虐性を増幅させる」
という役回りが得意なので、
それはツッコミという機能の方が近いと思います(コントではボケもツッコミも両方やるけど)
その両面性が一番出ているのが
落下女という番組での日村さんのソロパートコントだと思います。
ツッコミ的な運動でボケ的な気持ち悪おもしろに到達させて、それによって新垣結衣さんの魅力を若干引き立ててる。実はいじり芸の構造をしてる。
話を日村さんへの着目に戻してゆくと、
上記したような露悪性はパブリックイメージとしても設楽さんの方が操縦桿を握っていて、
今ではもうすっかり朝の情報番組の司会者の顔としてその要素が鳴りを潜めているけど、時たまなにかのきっかけでドロッとそれが溢れだす
的な認識の人が多いし、
その通りだと思うのですが
バナナマンの場合は
日村さんがその露悪をちゃんと止めない
というところに独創性があって
露悪性の「増幅」
という観点で言えば
それを担っているのは日村さんの方だと感じます。
時たま出てくる設楽さんの暴力的なヤバさ
に対して第一の被害者でありながら、
従順を装って
「この人ヤバいですよ~皆さん!」
的な印象を拡声器での波及させてる。
それによって強まる「設楽さんのヤバさ」が積み上がってゆく過程を特等席で見てる。
設楽統という芸人の無自覚性を
善良な心優しきモンスターの装いをしながら
「コアお笑い」としてむさぼってる
そんな自覚的な気持ち悪さへの嗜好
が日村さんの表層と内省とを複雑に混ぜてキャラクターとして仕上がってるところが天性の才能だと思います。
冷静になってみると
「子供の頃の貴乃花のモノマネ」は
あんなにキャッチーなギャグとして普及するにしては根底の毒舌視点が強すぎると思う。
非常にボンヤリとした記憶ですが、
10年以上前くらいの深夜ラジオで矢作さんはたしか、
「芸人はテレビに出てこそ、営業がメインの芸人もテレビが上だと思ってる」
みたいな発言を冗談の文脈を含めた上でしていたと思います。
バイキングが始まったばかりの頃も
「いいとものパクリだととか言われてるけど、まぁこっから長い目で見ててよ」
みたいな発言をブランディング込みでしていた記憶です。
ただ最近は、
オズワルドに「オレ達はネタを頑張ってきたから今がある」と漫才師ムーヴを出したり、シアターマーキュリーという新しい劇場のこけら落としに参加していたり、THE MANZAIやENGEIグランドスラムで披露するネタが昔のコント師テイストの強かった漫才よりもフリートークっぽいしゃべくり感を強めた漫才に切り替えてたりと、
漫才師然といした態度が目立ってきました。
個人的にこの路線変更感は、やはりバイキングの終了が大きいと思います。
(あとバイキングにしがみついていたからこそ終盤、小木さんが政治的毒舌キャラ感が増してしまった事への冷却作業でもあると思う)
それを微塵も感じさせない大人の余裕
飄々と芸能界を渡り歩いているフリ
それを踏まえて見ると矢作さんの忍び込み芸は、スリルとセクシーさもあって味わい深いです。
と、同時に覚えるのは、
ここまでの「忍び込み」が成功している上で、
おぎやはぎのゴールデン番組での冠や、
賞レースでのタイトル、
映画監督だったり小説のヒットだったりなんらかの別ジャンルへの活動によるブランディング、
などは具体的に無い
という事実です。
おぎやはぎが本当にすごいのは、この「おぎやはぎ感」そのもので、実績自体を底上げして雰囲気で成立させているところだと思います。これと言ってなにかある、というわけでは無いのです。それが凄い。
もちろん、初期のM-1への決勝進出、ゴッドタンという現在も続く伝説的な深夜番組の司会、などなどありますが、なんというかそれは当然凄いことだとして、でもM-1の点数が大阪9点だったり、今のJUNKの枠に入ったのは極楽とんぼの不祥事が理由だったり、ゴッドタンで伝説を残してるのは劇団ひとりだったり、なんというかやっぱり忍び込みの上手さが、実績を上回って高評価されてる感触が否めなくて、そこが凄く面白いです。
あと、おぎやはぎ的にここ10年間は
バイキングがバラエティ番組として成功しなかった事とかも痛手として大きいんだと思います。
その誤魔化し方の応急処置技術が、今一番おぎやはぎのアツいところだと感じています。
YouTubeにこの感じで、
けっこうずっと更新を止めずに運営しながら
深夜ラジオのJUNK枠に居たり、
ゴッドタンというテレ東バラエティに居たり、
BSで美術館巡りや愛車を語る番組や、
地方テレビ局でキャンプを楽しむ冠番組や、
東京03のユニットライヴ公演に毎回出てたり、
とんねるず、極楽とんぼ、トンツカタン森本さんの番組とかにも顔を出したり、
を全部バランスを取りながら生息している感じ。
(あと、それに対して小木さんは、アンジャッシュ小嶋さんのYouTube、さまぁ~ずのYouTube、千秋さんのYouTube、あと奥さんの小木奈歩さんのSNSとかにちょこちょこ出てたりしてる。
なんと言うか、こっちはこっちで政治性が感じられるというか、別軸のブランディングを裏街道とは言えないまでも築きあげてる感触があって、ある程度の規模感のコミニティの中心領域に堂々と突き進んでゆく事で馴染んでしまう運動を感じます。
タモリ的な「なりすまし感」はむしろ小木さんの方に主軸がある。
矢作さんは、小木さんにしろアイクさんにしろ、存在する事そのものにパフォーマンス性があるタイプの人物、に対しての環境整備を「忍び込み」によって施してるイメージ)
緩やかで気さくで胡散臭くて適当で、
でも英語ちょっと喋れて、
基本的にはアイクさんをさりげなく立てる姿勢で、
けど同時に遠回しに弄ってる笑いの取り方もしてて、
ただそれがすごく嫌味ってわけでもなくアイクさんも嫌がってるわけでもなくなんなら信頼関係はちゃんと築けてて、
なにより一番おもしろいのは
今このタイミングでこの規模感と浸透度とコメント欄の雰囲気とをYouTube上で成立させてる「忍び込んでる感」
そういう良さだと思う。
なんか勝手な妄想ですが、
この感じ、アイクさんへの接し方利用し方を、
30年前に小木さんにやって芸能界に忍び込んだんだと思う。
そういうナチュラル詐欺師感。
適度にサボるのが上手い能力。
英語という要素がバリケードとなって、あんまりテレビ芸能界の領域に、足の爪先をYouTubeに引っ掻けてるのがバレてない感じがある。
そういうバランス感覚が、矢作さんの面白さだと思います。
「矢作とアイクの英会話」の中に
おぎやはぎ矢作の能力と魅力が詰まってる。
批評、評論、考察、エッセイ、コラム、日記
(文字領域での漫談、漫才)
文学、小説、戯曲
(文字領域でのコント)
ネット大喜利、川柳、短歌、キャッチコピー
(文字領域での一発ギャグ)
楽譜
(文字領域での音ネタ)
数字
(文字領域での「お笑い」そのもの、コミュニケーション、情報流動、宗教的感覚まで含む)
2003年時点で長谷が「多くの人びとはただの剥き出しの生活を見られたがっているし、見たがってもいる」と指摘したような状況は、基本的にはその後もどんどん拡張・増幅されていったと言える。長谷によればナンシー関は、そうした状況が生まれつつあるなかでそれでも「テレビ世界の生態学的秩序がそこにあるかのように批評し続けた」批評家だった、ということになる。「テレビ世界の生態学的秩序」とはつまり、「テレビタレントたちが、番組のなかで自然体でおしゃべりをしたり料理を食べたりしつつも、そこで見せる「素」のキャラクターの面白さを一つの「芸」のように売りにし、それを基にしてテレビの棲み分け世界のなかで安定した地位を確保して生き延びようとする」ことを指す。ある時期以降(恐らく、小林信彦が言ったところの「テレビの黄金時代」が終わって以降)の日本のTV的な「同一性」は、このような「生態学的秩序」によって維持されていたと言えるだろう。そしてそうしたTV的な「同一性」や「秩序」は、さまざまな形での「剥き出し」性によって解体されつつある。