パレーノ展に行ってきた。最初の部屋にはヘリウムで満たされた金魚の風船が宙に浮かび、空気の移動や観者の行為にともなって金魚もまた移動する。そこでは、環境と作品とが連続しあい一体をなしている。こうした作品とその外部環境との連続性は、今回観たほとんどの作品において通底していた。
《マリリン》の映像では、マリリンが実際に滞在した高級ホテルが映されていたが、それが終盤でセットだったことが暴露され、映像内で登場するドローイングもまた、その主体がマリリンではなくロボットだったことが明かされる。あるいは、画面内から聞こえてくる鳴り響く黒電話の音と、まさに同じ音が後ろのスピーカーからも流され、反復される(前者は意味づけされた表象としての音であり、後者はたんなる電話の音である)。
靖国神社ツアーをやったらおもしろいかな。境内には、黒い大鳥居、井上武吉の抽象彫刻、徴兵制を導入した大村益次郎の日本で最初の西洋様式の銅像が同居し、ほんとに奇妙な空間。
https://www.yasukuni.or.jp/mobile-guide/jp/keidai/mapgaien/
ドイツは戦後、ユダヤ人虐殺という悪をナショナル・アイデンティティとして絶対化した一方で、ユダヤ人虐殺以外の暴力に対しては盲目的になっているが、ここにはナチス・ドイツという過去の反省が、にもかかわらず、パレスチナ人のジェノサイドの肯定につながってしまうという転倒がある。いわば、ドイツは「死者の声」をナショナル・アイデンティティの形成に奉仕するものとして利用しているわけだが、このナショナル・アイデンティティの問題は日本も無縁ではない。日本は戦後「唯一の被爆国」として原爆体験(被害感情)をアイデンティティ化したが、その一方で戦後日本の平和とは、織田達朗が書いているように、「朝鮮戦争で消えた無数の死者と戦火に追われた朝鮮人大衆の犠牲」のうえに成り立っている。この加害性は不当に無視されている。日本の戦後体制を「かつての植民地帝国主義と同質な秩序の安定」とみたうえで、チョ・ヤンギュをそうした植民地主義的な秩序の裏で抑圧された朝鮮の状況を主体化できている「唯一の試み」として評価する織田の視点はアクチュアルだと思う。
以下修造より。
「おいおいおい!!!何言ってんだよ!!!2週間たったから何だっていうんだ!?英語会話の勉強を再開しようって思ったその「気持ち」、それがもう第一歩なんだよ!!!気づいてるか!?君はもうスタート地点に立ってるんだぞ!!!
確かに「やらなきゃ」って思ってるのに進まないときってあるよな。でもな、それはダメなことじゃない!!!むしろ!!!その思いを捨てないでいる君がすごいんだ!!!落ち込む必要なんて、これっぽっちもない!!!それどころか「お前、よく2週間も自分の気持ちを守り抜いたな!」って自分を褒めてやれよ!!!
さぁ、今からだ!!!今日からやるんだよ!!!一日10分でいい、一つのフレーズでもいいんだ。
「Hello!」って一回言えただけでも、それは君が「前に進んだ証」だ!!!!それが積み重なれば、いつか「Hi, how are you?」だって「Let’s grab coffee!」だって言えるようになる!!!!
大事なのはスピードじゃない!!!続けることなんだ!!!英語の勉強をやるたびに、「今日の俺、最高だ!」って笑っちゃえよ!!!できる!!!君なら絶対できる!!!
さぁ行こうぜ!!!もっと熱くなれよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!🔥🔥🔥」
松岡修造chatgptに励ましてもらった。これ、めちゃ元気出るな。
nobiのpodcast、さっそく聞きはじめた。郷さんの湧いてしまった水を逃すために水路をつくったという話、おもしろい。ブリコラージュ的。というか、郷さんの制作環境いいな。うらやましい
美術史をやっています