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最近出会った若い人たちが大学間の垣根を越えて3月ごろに共同でアートスペースを立ち上げるらしい。同人誌もつくるみたい。ほんとにすばらしい。

恋愛関係において大切なのは、相手の主体性を肯定することに尽きますね。もっと端的にいえば、「ま、いっか」と思えること。他者は他者であり、相手のやることにとやかく言わない。大概の場合、自身の期待、要するに寂しさを相手に投影するからややこしくなる。自分の問題は自分で解決するしかない。それは恋愛に限らず、他者関係一般についてもいえる。

ただ、切り替えがうまくいっていない感はある。ゲイツやって、織田やって、次は写真という……。

いや、違うぞ、自分。ゆえに、やりがいがある、ととらえ返さなければ!

ああー、はやく忘年会やりたい。原稿が苦しすぎる。

宇内さん退社かあ。あと6も2になったし、当たり前の日常は突然変わる。変わらないものなどない。

つかれちった。もう休んじゃおう。

いやー、まったくウェブ向きじゃないもの書いてしまった。

過去じゃない。未来だ。そう、未来に目を向けるんだ! 目の前の仕事を黙々とやることだ!

韓国「非常戒厳令」を宣布って……

「あなたはプレイヤーでしょ、諦めんなよ(修造)」という宮下修造の言葉、心に刻もう。

そっか。今日文フリだったのか。行きたいなあと思いつつ、行けていない……。来年こそは行きたいな。

コンテンポラリー・アートより関野さんのがおもしろい。ほんとにそう。

ゲイツについて書くのつらかったのは(ほんとにつらかった)飽きちゃったからかもな。ゲイツの拡張された陶芸的方法論——ブラック・アーティストとしての社会関係資本を最大限活用することで、荒廃したアフリカ系アメリカ人コミュニティを再生させるとともに、プロジェクトの持続可能性を経済面で担保する——はおもしろいと思うんだけど。

なんかコンテンポラリーに飽きちゃっているのよねえ。最近は、根本的に変なことをやっている反時代的な作家にのみ関心が向いている。

まあ、惹かれるというか、ギョッとした。まじか、これやっちゃうのか、と。

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というか、コンテンポラリー・アート的な文法を洗練させた作品もいいけど、僕的には飽きた感じある。《どの時も、2024》のような掴みどころのない作品に惹かれるな。

総じて洗練された見応えのある展覧会だったが、とはいえ《どの時も、2024》のみ異質に思えた。クリオネが天使のように水中に差し込む光に向かって泳ぐ(羽ばたく)場面で流れるエモーショナルな音楽は、観る者の情動を操作するものである。そこになんの批判的意図もない。これはコンテンポラリー・アートではめずらしいと思う。ほとんどミュージックビデオ的と言ってもいい。

フィクションとリアル、作品の内/外を次々と反転させるこうした仕組みは、《マリリン》の上映が終わり、展示室の外に設置された《ヘリオトロープ》が駆動しはじめるとき頂点に達する。
《ヘリオトロープ》のインスタレーションでは、通常美術館では忌避される太陽光を作品を通して空間内に取りこみつつ、他方で美術館の外部環境からフィールドレコーディングされた音(鳥の囀りや川のせせらぎ)がスピーカーを通して再生される。そこでは美術館の内/外を連続させるとともに、美術館の外にある自然が観るべき対象となる。すなわち、視野の外にあった自然が鑑賞の対象へと反転するのだ。と同時に、いままで鑑賞の対象だった《マリリン》のインスタレーションが今度は、自然を見るための舞台(環境)へと反転することになる。

ドローイングのみで構成されたインスタレーションも同様である。この部屋では、展示ケースのガラス面とケース内の双方に作品が設置されており、照明の明滅に合わせてドローイングが現れたり消えたりする。そこでは作品の内と外(いわば図と地)が交互に反転する。

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