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瀬木慎一が批評家の社会的役割はマーケットをつくることだと言っていたけど、賞とか公募とかがんがんつくって言説を生産したほうが作家にとっても業界にとってもいいことは間違いない。その意味で、アートクリティック事業は画期的なわけだけど、そういう支援がもっと増えてほしい。

美術に限らず、批評ってそもそも書き手の人数もそうだけど、媒体が少なすぎるよな。というか、正確には減りすぎた。そして、美術にかんしていえば、言語化が苦手な作家ほど批評の存在は重要だと思うんだけど、さして重要だと思われていないという。

ルソー『社会契約論』終わりの章「市民的宗教について」を読み返していた。ここで言われている「忠実な市民」「善良な市民」を、自身の利害(特殊意志)と万人のための公共の利益(一般意志)とのギャップをなんとか埋めようと努力する精神の持ち主と——とりあえずは——理解していいと思うんだけど、ルソーはそうした精神をもたない者は「国家から追放できる」と言っている。トランプの再選とかここ最近の状況をみていると、なんかぼくもそんな感じになってきている……

「主権者がその箇条を定める権限をもつ、純粋に市民的な信仰告白が存在する。それらの箇条を定めるのは、厳密には宗教の教養としてではなく、社会性の意識としてである。もしこの社会性の意識を欠けば、善良な市民、忠実な市民たりえないのである。主権者はなんびとにもこれらの信仰箇条を信じることを強制はできないが、それを信じないものはだれであれ、国家から追放できる。」

ジェリコー《足と手の習作》(1818-19)
《メデューズ号の筏》の準備のために描かれた習作うちの一点。切断された手足がきわめて写実的に描かれているにもかかわらず、あまり残酷さを感じさせない。腕が足にだらりと絡み合う配置は、エロティックでさえある。指先がつま先にかすかに触れている。生と死がぐじゃぐじゃに混じり合っている。道徳の彼岸とでもいえるような絵画。

今日、ニルギリさんから彼がつくったゲームの話を伺った。プレイヤーは生前に相手と相談し、その相手が死んだ瞬間にゲームがスタートする。そしてプレイヤーは生前に相手と相談したルールを実行しつづける——。ほかにも聞いたけど、もっといろいろ聞きたかったな。

人生は一個の芸術作品であり、そしてそれをつくれるのは自分だけなのだから、断固として好きに生きたらよい。

「現代社会では、技芸(アート)はもっぱら物体(オブジェ)にしか関与しない何かになってしまい、個人にも人生にも関係しないという事実に私は驚いています。技芸が芸術家という専門家だけがつくる一つの専門領域になっているということにも驚きます。しかし個人の人生は一個の芸術作品になりえないのでしょうか。なぜ一つのランプとか一軒の家が芸術の対象であって、私たちの人生がそうではないのでしょうか。」(フーコー「倫理の系譜学について——進行中の仕事の概要」)

階級意識ですよ、階級意識……。これはけっこう書いている文章に出ると思う。

いやー、貴族の家に生まれたかったな。ケネス・クラークみたいにティントレットの絵画を誕生日プレゼントにもらって、「これいらない」とか言いたいよ。

今週の水瓶座のしいたけ占い。元気でますねえ。「真面目なアドバイスになるのですが、今週のあなたは活力を回復させるために、「ハンバーガーやお菓子を食べながら、目についたものに対して片っ端からバカにした態度を取る中学生」みたいな、反抗期としての態度を取ってみてほしいのです。」

批評や在野での研究って労働・仕事というよりは活動だよな。

原稿を書くたびにお金がなくなっていく……。仕事をみつけないと。いやはやー。

そして、そういった達人が実際にいる。いやー。

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授業で事前に用意したものよりも、時事ネタと絡めて即興的にしゃべるほうが、学生は聞く。それはまったく正しいんでだけど、力量的にむずい。数十分くらいならいけるけど、1時間半はきびしい、ぼくには。というか、毎週1時間半それができるって達人の域だよ。

ぼくなんて政治濃度薄いほうだけれども……

政治的な問題には想像力が問われている、ととりあえず仮定してみる。当たり前に享受していることがある瞬間、困難になってしまう——そうした事態について想像すること。そういう想像力を引き受けること。

身軽に話す批評の語りいいな。ただ美術についてあれこれ雑談している番組やりたいかも。
youtube.com/watch?v=kA3PzEZLh6

「中国に兵隊で行き、ひと一人傷つけもしなかったが、一度、銃殺刑の銃手を命ぜられた時があった。私は狙いを外して空を討ったが、しかし他の弾で受刑者は死んだ。私は今でも割り切れない気持でいる。」

鶴岡政男の手記を読むと、権力というものの恐ろしさを感じる。鶴岡のようなひとですら、無惨に権力に巻き込まれてしまう。空を打ったとしても人殺しの役目を誰かに押し付けたにすぎない。そうした「権力のメカニズム」(織田)からの逃れ得なさ、出口のなさこそが、権力の本当の恐ろしさだ。
織田は曺良奎もこの文脈から評価する。日本の(かりそめの)平和は「朝鮮戦争で消えた無数の死者と戦火に追われ追われた朝鮮人大衆の犠牲」の代償のうえに成り立っており、そうした朝鮮特需によってもたらされた高度経済成長の裏で抑圧された朝鮮の状況を主体化できている唯一の試みだ、と。

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