国籍には
1.どの国がその人の人権保障に最終的な責任を持つか決める
2.その人がどの政治共同体としての国に属するかを決める
という二つの働きがあるのだけど、2に引っ張られて「その人がどの政府に人権保障を要求できるかを決めるもの」だと誤解されているのが最低。
もちろん、実際にはそういうことはなく、全ての国連加盟国は領域内に存在するすべての人の人権を保障する義務を負っている。
まだまだ痛いのだけど、手術の縫合が突っ張って痛いという感じで、動きながら馴染ませていく感じかな、と思ってる。昨日の夜は畳に敷いた布団には寝られずソファーのリクライニングを傾けて寝たんだけど、今朝は布団に横になって2時間ほど寝られた。やはり、身体を完全に横にできるのとできないのとでは全然違う。
話は全然変わるが、セクシー田中さんの報告書が日テレから出てる。全文読んだが、テレビ局の中の人の雑な感性を随所に感じて、原作者が本当に気の毒になった。ドラマ制作側に傾いた結論になってるが、経緯は詳細に書かれてるので、逆に制作体制の酷さが浮き彫りになったんじゃないかな。プロデューサーたちのアンケートの匿名コメントも全然反省してないことがわかるし。その意味では値打ちのある報告書だとおもう。
🌸柔軟剤や洗剤に使われる、香りのマイクロカプセルは
ふんわり広がって☁️くっつきやすいので
まわりの人や物に香りが「うつって」しまう(移香)。
香料で苦しくなる体質の人には、毒をまぶされるようなもの🤢
シックハウスみたいなもので、
いま健康なあなたも、ある日突然、発症する可能性があるし、
好きで使ってた柔軟剤で発症した人もいるので、
好き嫌いや不快感といった精神的な問題ではないよ
#STOPマイクロカプセル香害 #香害は公害
#香害はみんなの話
長い(Mastodonの構造と差別反対の話)
Mastodonの構造上、どこかの鯖には所属しなければならず、自分で鯖立てればいいじゃない、というマリーアントワネットメソッドを使うほどアホな手間とか金を誰もがかけられるわけではない以上、誰かが善意で用意している鯖にアカウント作るしかない。
そしてその「誰か」が常に差別問題についてちゃんとした見識を持っているとも限らないので、そのような人物が立てる鯖に自分がいるのはイヤだ、と考えて離脱するのは当然自由ではある。
ただ、最初に言ったMastodonの構造上、多くの人は「誰か」の立てた鯖に登録するほかはないし、差別反対の主張もMastodonでしたいのであれば自分の所属している鯖でするほかはない。そもそも別鯖に行っても同じ問題は発生しうるのだから、「差別に反対するのならその鯖にいるのはおかしい」みたいなことは言うべきではないと思う
中学生のとき英語の先生に「その月の1日に最初に口にする言葉が『ホワイトラビット』なら、その月は幸運に恵まれる」って迷信を教えてもらったのを大人になってから思い出して、気づいたらなんとなく日付が1日に変わったら(思い出したときには)言うようになってた ホワイトラビット!
まあ、だったらスマホは希望者全員に無料で支給するのが筋であろう。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA2843I0Y4A520C2000000/
「ワシは知らん、子分が勝手にやりよったんや。」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9ac9a7d7290a15adab40691873f43ad8c17af8c5
要旨:コロナウイルス長期障害の持続率を調べた
発見:感染3年後、非入院患者の4.1%、入院患者の25.3%で長期障害が持続。それぞれ、3年で千人あたり約91年間、766年間の生産活動年数が失われていた。持続的な T 細胞活性化および免疫システムの機能不全が観察。
追加:
”コロナウイルス長期障害患者の9割が、感染時は軽度だった。”
ところで今回の展覧会では、
カルティエ=ブレッソンの写真について語られる際に代名詞となっている「決定的瞬間」という言葉が(既訳からの引用を除いて)キャプションや説明文、彼自身によるアフォリズムから排除されています。1952年に出版された写真集Image à la sauvetteの英語版が出版されたときにThe Dicisive Momentと改題され、さらに日本語訳されたときに英訳を直訳した「決定的瞬間」となって広く知られるようになったのですが、フランス語タイトルでは「逃げ去るイマージュ」とでも訳されるImage à la sauvetteにはどこにも「決定的」「瞬間」というニュアンスはなく((ベルクソンが論じたように)イマージュとは何らかの持続性・不(確)定性をともなったものとしてある以上、それは必然である)、先に述べたように、この展覧会では〈群衆〉をカルティエ=ブレッソンの写真において被写体以上のイマージュとして再定位する──「揺れ動く世界へのまなざし」というサブタイトルは、そのこと以外ではない──ことが目指されている以上、「決定的瞬間」という言葉を無批判に用いることは、単なる誤訳以上の問題を含んでいると言わなければならないわけで。
そう言えば今回は博物館に加えて、大学内の図書館のミニスペースでも彼の写真集の現物が展示されていましたが(手に取ることはできませんでしたが)、見ての通り、その表紙はマティスが担当しており、写真集の表紙に別人の、写真ではない作品を使用するって、現在の日本ではちょっと考えられないだけに、なかなか驚かされたのでした。