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そこで警察に対して「オレらなんにもしてないよ?」、「自由だと思っていたのに(実際にはそうではなかった)」みたいな問題意識がもてれば上出来だと思う。つまらないことばかり言ってないで、屋外に出てとにかく楽しむことがまず何よりも大切だと思っている。

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とりあえず人がいっぱい集まれば、そこに警察が来たりして、それだけで十分に「政治」の問題になるっていうのを日本人も早く経験したほうがいいと思う。たとえばクラブカルチャーって能天気なイメージで語られることが多いけど、そういう側面もたしかにあったでしょ。

私もここだけの話(呼び掛けの内容は別として)「ひとり街宣」はおもしろいと思ってしまった口。本当は政治なんかどうだっていい。いまとりあえず人が目的をもって家から外に出るっていうきっかけを(買い物以外で)作っただけでも偉いと思う。本当はもっと変なことすればいいと思うんだけどね。とりあえず最初の一歩として。

杉田俊介さんの鬱病のドキュメントについては、本当に切実さが伝わってきて、それ自体はたしかに胸を打つものなのだが、いつも投稿を見た後、こんなもの読んじゃっていいのか、という謎の罪悪感を覚え、この世界について申し訳なく思う。私の大切なネット上の友人も鬱で苦しんでいます。

あ、Threads一周年おめでとうございます。ザックにはこの機会にプラットフォームの中立性についてぜひとも考え直して欲しいと思ってます。せっかくおもしろいアルゴリズムで、投稿のキュレーションやってるんだからさ。

Discordはチャットメインで使っていたら、一時期四方八方から人生相談が寄せられるようになり、日常生活に支障をきたしたので、最近はほとんど使っていなかった。こういうオープンだけど、地味な場所のありがたみっていろいろ一周して初めてわかるんだよね。Mastodonは私にとって真っ昼間の人のいない公園みたいな場所。今でも。

女性ってネットでいつもこんな目にあっているんだろうな、ある種の男性って異性に向ける目が本当に異常、と悪寒とともに感じさせる好サンプルなので、彼には何も言わず、スクショ取って残しておこうと思う。

どこに軸足を置いて生きていくのかは人によって異なるので、そのすべてに反論するのは難しい。ただし何点か押さえておくべきポイントはあると思う。たとえば以下。
①アメリカ自身が「世界の警察」を辞めたがっているということ。これが安全保障において、最も重要な点だと思う。
②数万人の子供を「テロリスト候補」として殺すことは国際法のみならず、いかなる理屈によっても正当化されないということ。民間人への攻撃はたとえ巻き込みであっても駄目なのに、民間人を直接ターゲットにするなんていうのは前代未聞。常軌を逸している。
③イランはあくまでもイスラエルと敵対しているのであって、パレスチナと「提携」しているわけではないということ(ハマスからのイランへのアプローチがあったのは事実)。実際、イランはガザで3万人近くなくなっても、自国の大使館が攻撃されるまでは「静観」していたでしょう。
だから「パレスチナのバックにイランがいる」から西側の秩序を守るためにイスラエルを支援する、という理屈は成り立たない。
④ネタニヤフ自身が「文明と野蛮」という定番の比喩表現で、ガザでの虐殺を紛れもないパレスチナの植民地化の一環であることを自白している。
⑤客観的に言って、この世界には「聖なる土地」や「(神によって)選ばれた人々」は存在しないということ。

最近はXでイスラエルの肩をもつ少数の日本人の言い分を積極的に聞いてみたりしている(どういう理路でそうなるのかぜんぜんわからなかったので)。まるでアメリカ政府のスポークスマンみたいな人から、世界秩序を憂いる軍事戦略家、聖書原理主義者まで幅はあるが、みんな冷戦以降のパラダイムに捕らわれている点で共通している。

車の中でウルトラ・マグネティック・MC’SのCritical BeatdownをCDで聴いていて、11曲目の20秒~30秒までの間にプロディジーのSmack my b*tch upの元ネタを発見した。なおオールドスクールでは字義通りではなく「問題に片をつける」という意味のスラングとして、そのフレーズは使われている(もっともポリコレ的に言うとb*tchをproblemとするのはそれ自体問題なんだけど)。思えばプロディジーはビデオでも精一杯性差別のほうにミスリードしようとしていたけど、そこはきっとセックス・ピストルズ由来のスキャンダリズムってことなんだろうな。

小沢健二と渋谷系の話題がたまたま続いたから誤解されたのかもしれないけど、私は別に90年代のサブカルなんてどうだっていいんですよ。これといって愛着がない。「サブカル」自体、本来は門外漢ですから。ストゥージズの『ファンハウス』とかスライの『暴動』とか「サブカル」に含まれるであろう特定のカテゴリーの中で、好きな人はいっぱいいますけど、周辺文化はわりとどうだっていいんです。私にとってなくなったら困るのは、音楽で言えばバッハの『音楽の捧げもの』とかギヨーム・ド・マショーの『ナルシスの鏡』とかですよ。でもそんなもの人気ないし、晒したところで誰にも関心を持たれないから、こういうところではポップミュージックの話をするっていうだけで。何か根本的に誤解されているような気がするんですよね(気のせい?)

漢字に自信なくて、ひらがな表記にしただけで他意はなかったんだけど...

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すっかり忘れていたけど、何かを考えるときもはや自力で一からやる必要なんかなくて、コンビニでおにぎりを選ぶような感覚で既存の価値観の中から気に入ったものをひょいとつまみあげるだけで、誰でもいっぱしのことが堂々と言える環境なのだった(消費社会ってそういうものだということをここ数ヶ月くらい失念してた)。

今のところある程度奥行きがあって、ポジティブにも解釈できそうな投稿に「いいね」を押すことしかできていない。すごく傷ついているようだけど、本当に何も言えない。

時事問題なりなんなりについて、我が身に引き寄せて思考を始めるなんらかの「始点」があって、それをいくつかの命題によって中継し、暫定的な結論として「終点」に至る、という経路それ自体が失われてしまったのだと思う。じゃあ何に頼っているのかと言ったら「生理的」な好き嫌いと、フォロワーの「いいね」を媒介にした脊椎反射だけ。内容いかんに関わらず、あまりに原始的すぎるんだよ。この時代にアウグスティヌスが生きていたとしたら、それはもう泣くしかないよね。

あと某氏の場合「私はリベラルである」という謎の(根拠不明な)言明から始まって、内的葛藤と逡巡を経て、「ゆえに私はリベラルである」と結論づけて終わるので(しかもそのパターンが毎回同じなので)、おそらくものを考えるのが苦手な人なんだろうな、と思いながら見ている。根本的に自分の立場に懐疑がなく、しかも結論ありきで、考えている風を装っているだけなので、クリティシズムとしてはまったく評価できません。これもオリジナルの不在というかオリジンそれ自体の問題。

あとこれ言おうかどうか相当迷ったけど、北守さんとモジモジさんの投稿を見て思ったこと。推奨されるべきかどうかはともかくとして、私もマルチイシューでやるのはぜんぜんかまわないと思うんだけど、シングルイシューで人集めといて、後からいやこの運動はマルチなんです、そっちをやるならこっちも協力お願いしますっていうのはどうなの?公平に見てアンフェアだし、詐偽みたいな手口じゃない?...私がそれをしないのは純粋に能力の問題で、マルチタスクはパフォーマンスが落ちるからなんだけど。

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