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外山恒一に対して「呉智英で理論武装した鳥肌実」って揶揄表現というか批判を(Threadsで)見かけたんだけど、言っていることはよくわかる反面、彼のような人がいなかったら60年代なら70年代の学生運動と「左翼(主義)」の記憶が更に薄れてしまうでしょう。そのほうが恐ろしいよ。外山恒一の活動の意義は、過去とのミッシング・リンクになっているという一点に集約している。それはSEALDs系のリベラル全盛の時代にあって、(純粋にポピュラリティゆえに)千坂恭二や絓秀実にはできなかったことなんで。

昨日Xで「冷笑主義」がトレンドになっていて、それにまつわる投稿群を目の当たりにしたんだけど、結論から言うと、すごく下らなかった。SEALDsや彼らの活動を支持した知識人やライターの残したレガシーに現在の左派ポピュビリズムのルーツがあると思う。そして問題なのは、数少ない90年代生き残り組の佐々木敦の『ニッポンの思想』がそれらに対してディコンストラクトの役割を果たしていないってこと。議論の水準は著しく低くなったまま、立憲主義とロールズに依拠する自称リベラルだけが伸長した。

ひまそらあかねの『ネトゲ戦記』は近くの本屋にもあったんで、彼の人気(?)がインターネットローカルな盛り上がりとも一概に言いきれないものであることは、こちらの認識を改めるべき点なんだろうな、とは思った。フィジカルな本を売ることでも例外なく、基本的に左派がマーケットとして軽んじているところにある種の右派が食い込んできて占拠する、という構図は、近年あちらこちらで目にするので、ひまそらあかね自身にコンテンツとしてのキャパシティがそんなになくても、彼の象徴する現象はたぶんもうちょっと膨らむと思う。

考えてみると、意図的に(改まって)「自己形成」を試みる人なんて実存的にも社会的にもヤバイ人しかいるわけなくて、たいていの人は無邪気に自分の好きな漫画なりアニメなり(人によっては小説なり批評なり映像メディアなり)で、「自己」認識を勝手にカスタマイズしちゃうのが普通なんであって、その人なりに思考を始める最初の一歩に確たる根拠なんかなくても別に不思議じゃないんだよね。現代人としてある程度プラグマティズムの素養もあるから、霊感とか「ゴーストの囁き」とかも経験論的に全否定するわけじゃないし...

びっくりするほど中身のないことを言っている話者にそれでも多くの共感が集まってしまうのは、(中身がなくても)それなりに多くの人たちの「これを言ってほしかった」という需要を満たしたものだからだろう。だからこの場合、彼が実際に何を言ったかではなくて、話者の想定している読者層とそれを狙うマーケティングの巧拙を見るべきなんだろうな。もたれかかかるだけの共同幻想がまだあるなら、それと抜き差しならない関係にはあるわけだから、批評家の真似事をしている人を「頭が悪い」と切って捨てても、その背後にある膨大な需要について考えないことには何もクリティカルなことを言ったことにはならないという。

『憲法(上)〔新版〕』佐藤功(445-446頁より)② 

この場合、「能力に応じて」は各人の「智能の相違に応じて」の意味ではない。国民が智能の相違に応じて、それぞれの智能に適合する教育を受けるべきであるということは、特に憲法の規定をまつまでもないことである。また、この場合、特に教育基本法3条1項において、憲法14条に列挙しているものに加えて「経済的地位」を加えていることは、教育を受ける権利の生存権的な性質を重視し、国民が経済的事情のために現実に教育を受ける機会をもちえないことのないよう、国が積極的に措置を講ずる責務を有することを示したものである。

『憲法(上)〔新版〕』佐藤功(445-446頁より)① 

「能力に応じて、ひとしく」とは、教育を受ける権利における平等、すなわち憲法14条の定める平等原則の教育における適用を意味する。すなわち、人種・信条・性別・社会的身分・門地などによって教育を受ける権利が差別されてはならず、もっぱらその能力に応じて、教育を受ける機会を与えられるべきこと(教育の機会均等)を示す。教育基本法 3条 1 項は、このことを「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない」と定める。すなわちここに「その能力に応じて」とは、教育を受けることによってその人としての能力を向上せしめうる資質をもちながら、その資質とは関係のない他の事情によりそれが妨げられることがあってはならないことを意味する。

『権利のための闘争』p.49より 

・・・権利は権利を主張するか放棄するかを権利者の選択にゆだねているのだから、権利の立場からすれば争うのもよいし争わなくてもよいのだ、・・・この謬説と対立する私の説はこうである。人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視し人格を侮蔑するようなしかたでの権利侵害に対して抵抗することは、義務である。それは、まず、権利者の自分自身に対する義務である、-それは自己を倫理的存在として保存せよという命令に従うことにほかならないから。それは、また、国家共同体に対する義務である、-それは法が実現されるために必要なのだから。
 権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である。

ただ一つ思うのは、あくまで個人的な感覚で言えば、私は自分が何をしているのか自分でよくわからないことはなるべくならしたくないってことかな。それは誰かと連帯するときにも例外じゃなくて、自分が何のためにそこにいて、なんでその人と手をつなぐのかちゃんと意識していたいと思う。もちろん純粋に好意だったりする場合も多い(むしろそうじゃないほうが珍しい)んだけど、それはそれとして。

いや、私には意図がよくわからなかっただけで、インターナショナルだろうがアニソンだろうが、自分の歌いたい歌を歌いたいときに歌えばいいと思うよ。つけ加えて言えば、警察の介入に関しても「?」と思ったし。ただ世の中にはどうしてそうなったのかよくわからない話が多いなっていう。

「(労働者としての)警備員との連帯」という一種のユーモアだったらしい(?)。
x.com/youaquarium/status/18047

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名前は挙げないけど、この時代にガシガシ本を売ってる人も大したもんだよな、と感心する機会は多くなった。内容に関わらず、書評家なんかは特に。

学費の値上げに抗議することと、インターナショナルの歌唱の意味が自分の中でまったくイコールにならないんで、単に「?」という感じ。精一杯好意的に解釈しても、古きよき学生運動の懐古ムードを自ら茶化したかったのかな、としか。選曲についてはどうせ掘り下げても深い理由はないんだろうし、議論するだけ無駄だと思うけどね。

YouTubeのレコメンドで知ったんだけど、Satellite Loversってすごくいいバンドだね。オンタイムではまったく掠りもせず、2024年の今初めて聴いて感動してる。ポエトリー・リーディング風のジミヘンのカヴァーなんて最高。同時代のローファイ・ヒップホップってことでいうとグランド・ロイヤルのルシャス・ジャクソンとかからの影響もあるのかな、なんて思ったり、普段着なのに渋谷系の文脈からも自然に逸脱している感もあってかっこいい。

小沢健二の『LIFE』のいいところって計算された無防備であったり、計算された突っ込まれやすさであったり、いずれにしろ計算ありきでバチッと決まるタイプのものだったと思うんだけど(ぶりっ子すれすれのあざとさがあった)、中年になってよくもあしくもその計算が狂うようになってしまった感があるんだよね。天然を狙って装って、それがズレてるから、揚げ足を取られるようになってしまったんだと思う。そういう意味では、ネットとの相性も致命的に悪い。悪口言われるようになったのは、決して宇野維正が持ち上げてるからってだけじゃないと思ってる。

最近やたら「人を傷つけないように」とか「人に優しくするには」みたいな文言がSNS上で流れてくるの、別になにも異存はないんだけど、どういうモチベーションで話してるのか若干気になるところではある。また私の知らないところで何かあったんだろうか。この頃はいつもそう。

YouTubeではunicefの公共CMをスキップせずジッと見てしまう。すごく切迫感が伝わってくる。

最初は正直に言って不思議だった。イスラエルのパレスチナ入植と虐殺にどうしてLGBTQが怒っているのかと。一つの証言として残すために明記しておくけど、日本でデモや不買などのアクティヴィズムを先導したのは他ならぬ彼ら(LGBTQ)だったんだよ。いや、人権だなんだって言うなら、別にひどい目に遭ってるのはセクシャル・マイノリティーに限った話じゃないじゃない。それで、マックルモアの"HIND'S HALL"を聴いたときはっきりと確信したんだけど、おそらくガザでのジェノサイドに対する彼ら彼女らのリアクションは政治的に言うと68年のマイノリティ-・ポリティクスの延長上にある。当時はなかった問題ではあるんだけど、系譜としてはそう。華青闘告発の延長。だってマックルモアと言ったら同性愛を扱った"Same Love"の人として多くの人には認知されているだろうし。ちなみに、"HIND'S HALL"はガザでのジェノサイドをホットなトピックとして乗っかっただけの曲なら、最後まで黙殺しようと思ってたんだけど、リリックを読んで「こいつ...勉強してやがる」となったので文句なしです(ラップ自体はそんなにうまいと思わないけど、リリカルだし、デリバリーが秀逸)。

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