そういえばフュリオサ観たあとなんも言ってなくていまさらなんだけど、最初にアニャ・テイラー・ジョイが主演と聞いたときにあんな華奢な人がやるのかーと思ったけど実際見たら線の細さなんかみじんも感じさせない力強い演技で、すごくよかった。終盤はぜんぜん似てないはずのシャーリーズの面影がかぶってくる(メイクもあるんだろうけど)ところもすごいなーと。シャーリーズといえば、エンディングの前作映像、あれは必要だったんだろうか。わたし自身はフュリオサの余韻だけ抱えて帰りたかった。
前作と違って悪役を格好よく描かないことに力を注いでるんかなって感じで、そこはもちろんよいのだけど肝心のメインヴィランのビジュアルが髪型とかマント?とかどうも雷神ぽいのがすごくノイズになって、せっかく熱演されてるのに観ていてずっと、ディメンタスじゃなくてC・ヘムズワースを見ている、みたいな、そこが、好きな映画だと思いつつのめり込めない一因かなと思う。
どうしたことか封切り初日に「フェラーリ」を観てきたんですけど、たぶん車に関する映画なんだろう+銀髪のアダム・ドライバーということしか知らなくて、見ているあいだもどこにのっていいのかよくわからん映画でした。ペネロペ・クルスが迫力があってよかった。あとママも。愛人のひとはもうちょっと描きようがあったんじゃないかという気がした。で、フェラーリ本人は、アダム・ドライバーは大きいというところでかなり点数を稼いでいるなと思いながら見ていた。ガタイがいいとかじゃなくて大きい。あの大きさでカリスマ性を出してる。普通の体格だったらたぶん主役なのに薄い……みたいになりそう。アダム・ドライバーが悪いわけじゃないんだけどねえ……みたいな、うーんなんでしょう。
例の朝日新聞「悩みのるつぼ」野沢直子回につけた藤田直央編集委員のコメントを、「本質をついている」と評価している他紙の新聞記者の人がいて驚いた。
遠いこと/近いこと(身近)という分断を野沢回答は仕込んでいるのだが、その枠組に肯定的にのっかって「もっと身近な辺野古基地問題」を持ち出しているのが藤田コメント。
藤田コメントに反発が集まったのは「失礼しました」というふざけた一文であるかのように見えるが、(それとして言語化したものは管見の限り目にしていないが)実は野沢回答と同様のしくみで相談者の煩悶をつぶしにかかっていることを多くの人が直感しているのではないか。
で、アレを「本質」と呼ぶのが興味深いところで、こういう場合、現実から本質へと下向的に認識する過程は明らかにされず、いきなり本質を把握しちゃっているところがびっくり。というか、「本質」が雑に使われすぎ。