例の朝日新聞「悩みのるつぼ」野沢直子回につけた藤田直央編集委員のコメントを、「本質をついている」と評価している他紙の新聞記者の人がいて驚いた。
遠いこと/近いこと(身近)という分断を野沢回答は仕込んでいるのだが、その枠組に肯定的にのっかって「もっと身近な辺野古基地問題」を持ち出しているのが藤田コメント。
藤田コメントに反発が集まったのは「失礼しました」というふざけた一文であるかのように見えるが、(それとして言語化したものは管見の限り目にしていないが)実は野沢回答と同様のしくみで相談者の煩悶をつぶしにかかっていることを多くの人が直感しているのではないか。
で、アレを「本質」と呼ぶのが興味深いところで、こういう場合、現実から本質へと下向的に認識する過程は明らかにされず、いきなり本質を把握しちゃっているところがびっくり。というか、「本質」が雑に使われすぎ。
『僕はやはりテレビドラマというのは娯楽のためのものだと思うので、単純に視聴者を夢中にさせたり、楽しませたりするために作ってほしいと思います。
あまり「政治的な意図やメッセージを社会に訴える」ためにドラマを使うのはどうなのか。』
本当に馬鹿なんだなと思うんですよな。もうどこを切り取っても愚かさしかない。馬鹿の金太郎飴ですよ
人の生き死にの話をしているのに、アメリカの学生運動について若いコメンテーターがコスパを優先させるような発言をしたり、環境大臣を批判する発言に対して「3分なんだからルールを守れ」と言うひとがでてくるのをみて、うちの娘もおかしな学校の決まりがあっても「(先生に)言っても無駄」ってよく言ってたなと。それについては娘と何度か議論したけれども、小中高と12年かけて上の人間には「言ったって無駄」で何も変わらないことを学んだ、というか学ばされたんだな。それで、賢いフリをしようとすればするほど「やる意味ある?」とか「ルールを守れ」とといったふうにアウトプットされちゃうんだろうな。コスパ優先でルールを守るが最優先なんだったら、わたしたちロボットでいいじゃん。
立憲の勝利は自民への反発票が入っただけと言うの、確かにそういう面はあるけど、9人も候補がいた東京15区で一位と二位が大差なことを踏まえると、反自民票が単純に「誰でも良い」と考えていないことも事実じゃないかな。知名度だけの候補や維新には票がさほど流れなかった、特に無党派層の立憲支持が厚かった点は注目に値するのではないか。
https://www.nhk.or.jp/shutoken/newsup/20240428a.html