"誰の生殖を社会で規範化し、正しいものとして促進する一方、誰の生殖を排除し、誰の生殖を初めから想定しすらしないのか。国家はいつもその答えを用意している。人口の「量」と「質」に、国家はつねに興味を持っているからだ。少子高齢化を憂うこの国の政権与党が、「生産性」のない次世代の出生や、外国にルーツをもつ人々による生殖を歓迎しているはずがない。日本という国家にとって、殖えるべきは「生産性のある」労働力であり税収源であり、日本文化を継承する、人種的に”正当な”日本人だから。
国家による「量」と「質」の管理が、ずっと続いている。生殖の権利をないがしろにする政治状況が、ずっと続いている。その権利侵害が、優生保護法の「優生条項」として、そして「経済的理由」を削除しようとする暴政として、性同一性障害特例法の不妊化要件の存置として、続いている。
ここにあるのは、1つの現実だ。生殖の権利の侵害。
国家による人口の「量」と「質」の管理に対する抵抗。わたしの尊敬する女性運動の先輩から受け継いだ知恵は、2023年の現在においてもあまりに新鮮(フレッシュ)で、あまりにもアクチュアルだ。"
ばらばらにされた1つの権利 - ゆと里スペース https://yutorispace.hatenablog.com/entry/2023/01/15/210148
女性を消費するようなコンテンツが批判されるとき、作品に喚起されて具体的な犯罪が誘発されることを危惧しているというより、作品が体現している価値観や認識が現実社会の価値観や認識に影響を与えることを危惧している。
女性を客体化、モノ化する視点が受け入れらられることによって差別が助長・矮小化される、暴力が暴力と認識されなくなる、犯罪が犯罪と思われなくなることを問題にしていると思う。
例えば、強引なキスから恋が始まる展開が違和感のないものとして描かれることで、性的同意が軽視さる/性暴力が暴力と認識されなくなる、児童(未成年者)を拉致した犯人との"恋物語"が"純愛"として受け入れられることで現実に起きている児童への搾取が矮小化されてしまうなどなど。
つまりフィクションが個々の「犯人」に与える影響というより、ひろく社会の価値観・認識に与える(与えている)影響に対しての危惧であり批判だ。
まずはそこをきちんと別けて考えないと意味がないと思った。
年忘れの講談を聞きに行った。でも、講談師が忠臣蔵に出てくるある人物のことを、「◯◯だったんですよ〜」と同性愛者の差別用語で呼び、観客の高齢男性がドッと笑う、ということがあり、立ち上がってノシノシ歩いて出口の引き戸でガラガラピシャッと音を立てて出てきた。わたしはキレたらしい。
先日書いた、文学座公演『欲望という名の電車』でも、女性主人公の年齢や独身であることをいじる演出があり、そのたび高齢の観客の方々がドッと笑う、という似たような経験があった。
どちらも、客が笑う(需要がある)からやるのだろうけれど、差別なので。あなたは差別で人を笑わせているので。
あと、差別的なことを言って差別的な客を笑いに誘うのは、「芸がない」からだとも思う。
ただ思い返すと、昨年末も、講談を聞いていて引っかかることがあったような気がする。でも去年の自分は、聞き流し、全体の面白さや盛り上がりのほうを取ってしまった。
そのときの自分は観客として間違っていたと思う。小さな違和感を拾っているのに全体を取って楽しむ、評価する、いうのは有害な行為だったと、反省する。これからはけしてしないようにと。
そんな2022年の暮れです。
国連で日本の人種差別的現実の報告がなされる時、事前にさまざまな団体がマイノリティの人々の経験を調査して実態報告を国連の議論につなげていて。
特にマイノリティ女性たちが置かれた交差的な現状を明らかにするような調査がないと立ち上がって自ら行っていった調査がとても重要で、それらが日本への具体的な勧告へとつながっている。そうやって国連での様々な議論が形成されてきました。
そしてこれらの人種差別に関する様々な勧告の中に「ハーフ」や「ミックス」の人々の話が出てこないのは答えは簡単で、それはこのテーマの全国規模の調査がまだないから。だから今年はアンケート調査の形で実態調査を行ってみたいと考えています。
どのぐらいできるかわからないし、まだ準備不足な所もあるのでコツコツ準備を進めていかないといけないけれど、何とか形になるように頑張ってみたいと考えています。
事実上、「公然の秘密」である首相会見の質問 事前提出。
総理番経験者へのインタビューが実現し、内閣記者会はもはや「業務」として粛々と質問を取りまとめ、内容すらも事前調整していた衝撃的な実態が見えてきました。
https://juninukai.theletter.jp/posts/31f2d1d0-6b07-11ed-b9cb-930ea0af2ff3 #theletter
「男だろ!」は一昨年も批判されていた記憶だけど、このフレーズは明確に(性別二元論を前提にした)「女にはできないが男にはできる」「女ではなく男であることを示せ」という性差別の前提に立つ言葉。これがいつまでも"名文句""カリスマ"と紹介され、タイトルにまで使われ、「言えない話ばかり。何回泣いたかな」という"厳しい指導"が美談として紹介される背景に、男性優位でホモソーシャルなスポーツという領域が、性差別やハラスメントを"例外"として許容してしまう問題があるし、前述のような表現が記事で無批判に取り上げられるあたりメディアの責任も大きいと思う。
https://mainichi.jp/articles/20230103/k00/00m/050/030000c
新宗教「エホバの証人」3世のはなさん。高3の時、同性との交際が親にバレて「排斥」。父から「お前が死んだほうがましだった」と。両親やきょうだいははなさんとの会話を避けた。その年に家を出たが誰からも声をかけられず。「私に家族はいないんだ。ひとりぼっちなんだ」。「親に愛されて育ったと思ってきた。でも、宗教を信じていたから愛されていたのだと気付いた。教義が家族のつながりより優先される。そのつらさを知ってほしい」。
https://mainichi.jp/articles/20221229/k00/00m/040/072000c
その昔、新古書店ブームがめちゃくちゃ吹き荒れたころ、
「本は新刊で買うべきだ。古本では著者にも出版社にも一円も入らないから、出版界が衰退する」
という説が主流だった。自分もそう思っていた。
シリーズ物などは、売れ始めると新古書店で多く回るようになり、重版のスピードが鈍ってしまう。編集さんから「新古書店がなければもう何巻か続けられたシリーズも多い」と聞いて、困ったことだと思っていた。
さいきん、業界外の若い方々とお話しすると、通販で古書で本を買って、読んだら売る、という方がやはり多い気がする。丁寧に読んで、次の読者に回す。お金の問題ももちろんあるけれど、環境問題が関係しているように感じる。自分一人が新品を買って、読んで、終わり、とするのは、資源を大事にしていない、大事に扱って次へと回せば環境にもよい、という問題意識が根底にあるように思う。
それも正しく感じ、自分もさいきん、行動をそう合わせるようにもなってきた。とはいえ、自分は本を作っては売る側でもあり、資本主義…環境問題…うーん…考える…
また答えがない。
ただただ、日々、難しい。
国連でも「複合差別」が指摘され、日本政府に対し実態調査が求められてきたが実施されず。「国が調べないなら、自分たちでしよう」市民グループが20年続ける在日コリアン女性への調査。「マイノリティー女性が性差別に加え、民族差別にも悩む姿が調査によって可視化された」。
「在日社会では儒教文化の影響から、女性が家庭の祭祀(さいし・チェサ)の準備や家事をするといった価値観が残る。こうした背景をふまえた、『民族文化を継承する中で男性優位の価値観や家父長的慣習を見直すべきか』との問いに、約8割が『見直しが必要』と回答した」
https://digital.asahi.com/sp/articles/ASR144GYFQDYPTIL009.html
コロナ禍で女性が大きなダメージを受けた経済状況を「She+Recession(不況)」を掛け合わせた造語「シーセッション(女性不況)」。コロナは、男性が多い製造業を中心に失業者が出たリーマン・ショックと対照的に、非正規雇用の女性に大きな打撃。理由は三つ「休業などの影響が出た飲食や宿泊業界の働き手の6割が女性だったことと、家事・育児の負担が女性に偏る中で外出自粛が求められ、女性の方が離職や休職を迫られたこと。そして、女性の半分が、雇用調整の対象となりやすい非正規労働者だったことだ」国が掲げる「女性活躍」は「一部の優秀な女性のキャリアをどう引き上げるかに焦点を当て、非正規対策は後手」「普通の女性たちに焦点を当て、働けば生活が良くなると実感できる賃金水準や、労働条件の改善を進めていく政策」が必要。重要な指摘であると同時に、例えば人種や民族、性的指向、性自認、障害など、"普通の女性"とされる層からさらに取りこぼされる複合的な困難に直面するマイノリティ女性の存在がカバーされる政策の必要性も指摘されるべきと思う。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/223338
在留資格のない外国人、心疾患で命を落とす可能性と診断。費用150万円の見込みのうち支援グループで100万円を工面。しかし病院からは「うちは外国人は2倍」と300万円を要求。「差別ではないか」と掛け合ったが「ルールだから」と。大沢さん「本当に日本で起きていること」記事で紹介されている、都内の公園で暮らすミャンマー国籍の40代男性のように、「ミャンマーで反政府デモに参加していて、昨年のクーデターにより帰国は絶望的」という人も。日本人の場合、健康保険に加入していれば、医療費の自己負担は一部。保険未加入の外国人は、全額負担を超える費用の場合も。在日外国人の支援活動を続ける大沢優真さん。医療費の負担軽減や、一部の在留資格に限られている生活保護の受給を、広く受けられるようにするのも重要と指摘。「外国人も同じ人間。目の前で『苦しい』『つらい』と言っていたら手を差し伸べるのは自然のことでしょう」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/223503
沖縄の戦没者の遺骨収集を続けてきた具志堅隆松さんは、「要塞化」されつつある沖縄が「再び戦場にされるのでは」と危機感を強める。一帯が攻撃された場合、果たして迅速な住民避難は可能なのか。原発避難を経験した木村紀夫さんはも疑問を呈する。取材報告音声は▶ https://youtube.com/watch?v=xkmqR5HYVWk #D4P
前にも書きましたが、日本学術会議は、WWII以後、「滝川事件」、「天皇機関説事件」などの、学問に対する弾圧の反省として、憲法に「言論の自由」とは独立して、わざわざ23条で「学問の自由」を明記し、その「学問の自由」を制度的に保証するものとしてつくられたものです。
ところが安保法制の際の「報復」=「みせしめ」として、「任命拒否」問題が起こり、岸田政権になっても、この「政治的」報復を撤回するどころか、学術会議の構成そのものに政府が介入できる「法改正」を表明。
これは、直接的には、大学を軍事開発に動員する、という目的がある。
以前にも書いたが、学術会議全体としては、今のところ「軍事開発」に協力することは「望ましくない」という立場。
しかし、工学系を中心に、「デュアル・ユース」の名の下に軍事開発に関与して巨額の研究費を獲得したい部分もすでに存在している。
来るべき法改正は、学術会議が軍事研究への協力への「障害」とならないよう、「介入」できるように設定するつもりだろう。
しかし、同時に、憲法23条に基づいた「学問の自由」は骨抜きにされることになる。
従って、学術会議問題は、たんに研究者に関わるだけでなく、日本国憲法体制への全面的な攻撃の重要な一環をなしている。。
この実態、ぜひ知ってほしい。「年賀状を読む」という、本来は穏やかなひと時が、「ふれあい館」では「一年で一番緊張する瞬間」となる。2020年1月に、在日コリアンに対する脅迫年賀状が届いて以来、指紋がつかないよう職員がゴム手袋をはめ、一枚一枚を確認するようになった。
共同親権をめぐる議論のミスリードについてニュースレターを配信しました。
https://juninukai.theletter.jp/posts/ed3def50-8c2f-11ed-bb62-0d8d17c2d758 #theletter
「官製婚活」をやめた広島県安芸高田市の石丸市長。少子化対策を名目にした結婚の斡旋。12年間、約4600万円かけて結婚に至ったのは59組。そもそも「結婚という極めてプライベートで、個人の価値観に関わる話題に、公が関与すべきではありません」。真っ当だと思う。
「自治体が少子化対策として結婚をすすめることは『結婚して子どもを産むことが正しい』という風潮をつくりかねない」「『結婚して』と働きかけるのは余計なお世話(略)少子化対策として結婚をすすめるのは、結婚できない人、子どもを持てない人、LGBTQなど多様な人たちへの配慮も欠けています」
「どんな境遇で生まれた子どもであっても学費、医療費、生活費の支援が充実し、社会全体で支える仕組みがあるからこそ、子どもを産もうという気持ちになるのではないでしょうか。『まず結婚』をスタートラインにしていては、前に進まないと思います」
https://mainichi.jp/articles/20230106/k00/00m/040/261000c
→ 昨日の投稿に続けるけれど。
Colaboへの攻撃を「リベラルエリートに対する民衆の反乱」と評した人がいるとかで鳥板で問題になっていたらしい。
その評価自体がものすごく的外れなのは言うまでもないけれども、でも、「リベラルエリート」をどんどん拡大して、様々なマイノリティの人権擁護の主張に対する差別的・反動的な抑圧を「リベラルエリートがそうではない人々を見下してきたからだ/耳を貸さなかったからだ」と言う形で擁護するパターンは、2016年くらいからずっと続いているよねと思っている。
このタイプの「リベラルエリート批判」はいわゆる「新自由主義批判」のひとつの形でもあることには注意すべきで、新自由主義の批判はもちろん必要だけれども、それが実際に欧米で排外主義や女性や性的少数者の抑圧に吸収・利用されていることも、忘れるべきではないと思う。
→
ちなみにここで起きていることのややこしさは、公の領域を縮小し続けた(「私的自由」を極大に解釈してきた)先に生じた問題に個人や私的組織が対応することを余儀なくされてきたところに、今度は突如その個人や組織に対して「公」的性格を強めに見た情報開示や精査の要求がなされる、という捩れにあるように思っている。この部分はまだうまく整理して理解できていないけれども、ただこの話はその点で新自由主義批判の観点とも関わってくるものだという感覚と、何かそこに強い捩れがあるという感覚だけ、とりあえず書き留めておく。
とにかくそう考えれば、炎上という言葉は(「燃えている」側の落ち度というか、自家発火を思わせるので)使うべきではなく、明確に「抑圧」「圧力」という表現が適切だろうというのは、その通りだ。
その上で、その単語ひとつでいきなり「セカンドレイプ」と罵ってくるタイプの方とはもう本当に関わりたくないので、象さんに移って最初のブロックをした。こちらにもこういう人々が押し寄せてくるようになるのは、とても残念だ。