ああいうのが当たり前の考え方として受け入れられるような社会って、どうやったらできるんだろうなあ。
1つには、自分のことで精一杯で自分とは直接関係ない他人がどうこうとか、社会がとうこうなんてことを言ってる/考えてる余裕がない人があまりにも多いのでは、という気はしてる。
なんかそれって、少子化の原因(だと僕が思ってるもの)と同じようなものだなあ。
独り1人が尊重されて、それなりに暮らしに余裕がある状態ができないと、社会のいろいろなことがうまくいかないってことなんだろうなあ。
そういうときに、まず金持ちに金を行き渡らせてトリクルダウンを待つとか、まずはマジョリティーを優先して尊重するとか、そういうのあり得ないと思うんだよなあ。
3カ月くらい放置されてたaxe-coreの翻訳ファイルの更新のプルリクエスト、日本語分かる関係者のレビューが付かないからもうあきらめてたんだけど、今週の初めになんか急にコメント付いたからなんだろうと思ったら、どうやら否日本語ネイティブの開発元の人(だと思う)がGoogle Translateを駆使して(だと思う)レビュー初めてくれた模様。そして普通に誤字脱字の修正提案とかしてくれてるのすげえ。
で、いくつか見つかった問題修正して、これでマージされるかと思ったら、そこでまた止まってしまった。。。
早く手放したいんだよなあ、これ。
https://github.com/dequelabs/axe-core/pull/4018
今の日本で一般的な墓のあり方は関東大震災がきっかけで定着したものでかなり新しいもの、という話が紹介されてる。
ちょっと意外だった。
先祖代々のお墓どうする? 骨仏が映す供養の未来 - 日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF043SD0U3A700C2000000/
ああ、夏休み的な期間中にうまい焼き肉かウナギを食べに行きたいとぼんやり思ってたのを思い出した。
けど、現時点で何も計画してないからこれは実現しないかな。
今ブーストしたような論調、こういう考え方になじみがない人からすると極論に聞こえてしまうだろうなと思う。これを極論だと思う人たちは、おそらくはaffirmative actionに対しても否定的な考え方をするのではないかという気がする。
障害の社会モデルの考え方がもっと広まると良いのだろうという気がするけど、なかなか難しいよなあとも思う。
自己責任論が大好きな人たちに言わせれば、障害者は自業自得くらいに思ってるだろうし、社会の有り様に問題があるというのは受け入れられないだろうと思う。
でもそこを変えていかないと世の中は良くならないし、少なくとも僕の暮らしは楽にならない。
再三言ってますが、発達障害者が適応することばかり求められる社会は不公平です。
数が多い上に君達向けに社会が作られてるから「定型」と言われてるだけで僕らの方が数が多かったら僕らが「定型」と呼ばれて君らが障害者として苦労してたんだぞ(強気)
【 ブーストお願いします! 】
☆お知らせ☆
先日はたくさんブーストしていただきありがとうございました!
今回はみなさんにお知らせがあります。
本日8月20日にボランティア団体「そらいろと翼」を設立しました!
広義のトランスジェンダー(トランスジェンダー、Xジェンダー、ノンバイナリー、クエスチョニング、クイア、そうかもしれないと思っている)の方々のための団体です
活動内容は当事者同士での交流会、居場所づくり。
15歳~参加できます!(保護者の方の付き添いも可です!)
活動場所は主に東京都(青梅線、中央線近辺が多いと思います。)です。
もちろん遠くの地域の方々のご参加もお待ちしております!(Discordを開設予定)
参加希望の方はメッセージくださればと思います
詳しくはまた追記します、よろしくお願いします!
SNSの機能や運用に完全性を求めるのは誤りで、本当の問題はSNSの中ではなく、私たちの社会や個々人の心の中にあります。
しかし、SNSが強い影響力を持っている以上、その範囲内において可能な努力が必要で、求めていく必要があります。
様々な場面で同様のことが言えますが、このあたり、バランス感覚が必要です。
たとえばブロック機能が回避可能で不完全であることは事実ですが、実際に効果を発揮するものであることも事実です。
ある機能が、全体に様々な影響を与えるもので、ある人にとって絶対的に必要とされるものであったり、ある人にとっては無用のものであったり、ある立場からは有害な、活動に制約をもたらしたり利益を阻害するものであったりします。
人は、自分の立場から理解し易い、自分の立場を補強する、シンプルな答えを求めるものですが、制度設計というのはそんなに単純なものではありません。
そのことに対する意見も、個人の感想として自由に扱われるケースと、持ち合わせる影響力や働きかけの度合いによって責任を問われるケースがあり、これもまたいずれかに偏っていれば他方には不利益をもたらす、バランスを求められるものです。
Fediverseは、そうした様々な立場からの選択を単一価値観に強制する必要のない環境を提供しています。
同じ目的を達成するためには複数の手段がある場合も少なくないし、どの手段が最適化は人によって異なっているかもしれないし、もしかするとその瞬間「目的」だと考えているものは、もう少し先にある本当の目的を達成するための「手段」かもしれない、そんなことになにかのきっかけで気づけるかどうかで随分といろいろな物事に対する向き合い方が変わってくると思う。
僕の場合は、そこに気づいたのもそれなりに大人になってからだった気がするし、気づいてから積極的にそう割り切って考える癖がついたのはもっと後のことだったと思う。正直今でも割り切り切れてないところもあると思う。
マジョリティーが採用している手段は、マジョリティーにとっての現状での最適解である可能性は高いのだろうけど、その想定されたマジョリティーというのがどれだけ自分から距離があるものなのかは、障害の有無に関係なく、もっと意識すると良いのかもなと思う。
で話は変わってその「子供の頃は見えてる子と同じことをしたがる」という件。
これ、あとから考えると、特定の目的を達成するための手段は、マジョリティーがやってる手段が唯一のものだと子供の頃は考えがちで、その手段を行使することから排除されてしまったら、その目的は達成できないと信じて疑わないような感じだからなんだろうなと思う。
手段と目的という観点からはそうなんだけど、それとは別に、見えてなくても見えてる子と同じことをすることで、自分の異質性を否定したいという強い欲求もあるのだと思う、というかおそらくはこっちがメインのものなのだと思う。
ではなぜ異質性を否定したいのかと考えると、それはその時点で、自分が暮らす社会が異質な者に対して寛容ではないということを知ってしまっているからなのではないかという気がする。
そしてその感覚は成長するにつれて確信に変わり、自分が持つ異質性をいかに排除するか、どうやって健常者と同じように振る舞うかという、今思えば本当に無駄なことに散々努力して挫折して、ということを繰り返すことになってしまうのだろうと思う。
主人公が紙の本擁護派ともいえるような人たちの主張について批判してるところがあって、これには結構共感した。
ただ、その一方で、紙派の人たちが言うことに対して、物わかりが良い振りをして理解どころか共感を示すようなことを僕は結構やってきたなあなどと思ったりもした。僕の立場としては、紙派の人たちがなにを言おうと、否紙媒体の利点を認めて紙同様にアクセスできるものにすることを、少なくとも邪魔立てしなければなんでもいいや、という感じなので、理解を示すことはともかくとして、共感まで示さなくて良かったんじゃないのかななどと急に思った。
こんなことを考えたのは、たまたま昨日呼ばれて参加した視覚障害教育に関する会で、子供の頃は見える子と同じことをしたがるものだけど、本来同じ結果を得られることが重要なのに同じ手段を取ることの方が重要になっちゃうんだよね、そしてそれが重要じゃないってことは結構大人になるまで意外に気づかないよね、なんていう話になったから。
紙の本を読むという、僕には使えない手段に共感を示すことで、僕も使えているような錯覚を得たかったのかもしれないとふと思い当たってしまって、なんか暗い気持ちになってしまった。
読書バリアフリーの話をする上では、視覚障害者の読書の話は避けて通れない感があるとはいえ、「愛のテープ」なんていう僕も完全に忘れていたようなキーワードが出てきたのには驚いた。かなりしっかり調べて書かれてるなという気がした。(まあ僕が忘れていたというのは、アクセシビリティーに取り組んでいる人間としては結構ダメなことだと思ってるけど。)
で、改めて愛のテープの話を調べてみたら、アメディアの望月さんの文章を見つけた。点字出版(まず点字媒体で出版する形)と著作権の問題について、あまり考えたことがなかったので興味深かった。
https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/access/copyright/mochizuki_jla1007.html
『ハンチバック』はアクセシビリティーの話だ、と知人が言っていたので読んでみた。(短いのと話題作だということもあってか、既に点訳版があった)
読書が持つ非健常者を排除する前提についてみごとに指摘してくれている点は、確かに完全にアクセシビリティーの話だった。
で、他の部分に関しては、障害者としての自分の立場で読むと苦しくなるところもあり、とはいえ障害者としては別に重度でもない自分の持つ健常者性を意識すると苦しくなるところとあって、短かったから読み切ったけど、かなり読むのがつらい話だった。読んで良かったけど。
オーストラリアで同性婚が法的に認められるまでの市民活動について取材した記事。
僕が実現したい社会の変革だって、根本にあるのは同じ思いなのだから、なにか学べることはあるはず。
折に触れて繰り返し読むようにしたい。
「結婚の平等とは“WHAT”ではなく“WHO”」 豪における『結婚の平等』への道のりをアダム・ノーベル氏に取材 - フロントロウ | グローカルなメディア https://front-row.jp/_ct/17640778
中年に突入した、男、全盲、下手の横好き。
ICTのアクセシビリティーに関連することに取り組んだり取り組まなかったり。