読書バリアフリーの話をする上では、視覚障害者の読書の話は避けて通れない感があるとはいえ、「愛のテープ」なんていう僕も完全に忘れていたようなキーワードが出てきたのには驚いた。かなりしっかり調べて書かれてるなという気がした。(まあ僕が忘れていたというのは、アクセシビリティーに取り組んでいる人間としては結構ダメなことだと思ってるけど。)
で、改めて愛のテープの話を調べてみたら、アメディアの望月さんの文章を見つけた。点字出版(まず点字媒体で出版する形)と著作権の問題について、あまり考えたことがなかったので興味深かった。
https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/access/copyright/mochizuki_jla1007.html
で話は変わってその「子供の頃は見えてる子と同じことをしたがる」という件。
これ、あとから考えると、特定の目的を達成するための手段は、マジョリティーがやってる手段が唯一のものだと子供の頃は考えがちで、その手段を行使することから排除されてしまったら、その目的は達成できないと信じて疑わないような感じだからなんだろうなと思う。
手段と目的という観点からはそうなんだけど、それとは別に、見えてなくても見えてる子と同じことをすることで、自分の異質性を否定したいという強い欲求もあるのだと思う、というかおそらくはこっちがメインのものなのだと思う。
ではなぜ異質性を否定したいのかと考えると、それはその時点で、自分が暮らす社会が異質な者に対して寛容ではないということを知ってしまっているからなのではないかという気がする。
そしてその感覚は成長するにつれて確信に変わり、自分が持つ異質性をいかに排除するか、どうやって健常者と同じように振る舞うかという、今思えば本当に無駄なことに散々努力して挫折して、ということを繰り返すことになってしまうのだろうと思う。
同じ目的を達成するためには複数の手段がある場合も少なくないし、どの手段が最適化は人によって異なっているかもしれないし、もしかするとその瞬間「目的」だと考えているものは、もう少し先にある本当の目的を達成するための「手段」かもしれない、そんなことになにかのきっかけで気づけるかどうかで随分といろいろな物事に対する向き合い方が変わってくると思う。
僕の場合は、そこに気づいたのもそれなりに大人になってからだった気がするし、気づいてから積極的にそう割り切って考える癖がついたのはもっと後のことだったと思う。正直今でも割り切り切れてないところもあると思う。
マジョリティーが採用している手段は、マジョリティーにとっての現状での最適解である可能性は高いのだろうけど、その想定されたマジョリティーというのがどれだけ自分から距離があるものなのかは、障害の有無に関係なく、もっと意識すると良いのかもなと思う。