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第4章 禁止・賠償・リスク〈禁止と賠償〉 

・権利を侵害することが禁じられているのか、賠償をすることにより権利の侵害が許されるのかという疑問がある。本章ではこのことを論じる。
・単に賠償させる以外に何らかの罰を科する(ことになっている)のであれば、その行為が禁止されているということにする。(これは十分条件である。)
・どこまで賠償するかについて、最初に出てくる答えは「権利の侵害により被った損を補償するまで」となるだろう。しかし、権利を侵害された人が予防措置を取っていて損害が少なければ補償も少なくなり、なにもせず損害が多ければ補償も多くなるというのは非合理に見える。
・ゆえに暫定的に、合理的かつ慎重に行動する人なら被ったであろう損害の程度に対して賠償する、という見方を採用する。

第4章 禁止・賠償・リスク〈独立人と支配的保護機関〉 

・一つの(支配的な)保護機関の契約者の間に、契約関係にない少数の独立人が散らばって住んでいると仮定する。
・保護機関とその契約者たちは、独立人たちを地理的に孤立させて関係を絶とうとするかもしれない。しかし、完全に孤立させることが許されるのか、という論点が残る。(この点は第7章で扱う。)
・別の可能性として、保護機関は契約者が独立人から自力救済として報復を受けそうなときには、実際にその契約者が独立人の権利を侵害したかを調査する前に、報復から契約者を保護することがあるだろう。
・実際、自分が他人の権利を侵害されたと証明されない限り処罰されることはない、ということは、人の権利に含まれるのではないか。そして、保護機関間の競争により、権利の侵害が証明されない限り契約者を守ると宣言する保護機関のみが残るのではないか。
・しかしながら、独立人から見れば、正当な自力救済の権利が侵害されていることになる。
・この問題に答え、支配的保護機関が契約者に対して何をすることが許されるのかを決定するために、自然状態における手続的権利と危険な行為の禁止の道徳的地位を検討し、何が前提となっているかを明らかにしなければならない。

第3章 道徳的制約と国家〈個人主義的無政府主義者〉 

・ここまでの議論により、無政府主義者が超最小国家を道徳的に正当化できないと主張する理由が分かる。超最小国家が私的な権利回復を罰することは、付随制約に反している(と考えられる)からである。
・第二部では、誰の権利も侵害せず道徳的に許容できる形で、私的保護協会が超最小国家に移行することを見えざる手説明によって論証する。そして、超最小国家は最小国家に(道徳的に)移行せねばならないことを主張する。

第3章 道徳的制約と国家〈制約の基礎は何か〉 

・ここまでの議論で、第一の論点として、われわれの道徳観は付随制約論なのか、それとも階層構造を持った(=付随制約と権利功利主義の折衷)ものなのか、第二の論点として、付随制約が存在するのはなぜなのか、逆に言えば人々のいかなる性質が付随制約と結びつくのか、を考慮しなくてはいけないことがわかる。
・ここでは第二の論点を取り上げる。伝統的には、理性をもつこと、自由意志をもつこと、自分の行動を道徳的に律することができることが、道徳的に扱われるべき条件と考えられてきたが、なぜそれらの性質が制約に結びつくのかは明らかではない。
・付け加えるべき条件は、自分の計画に従って自分自身の人生を形作ることであると思われるが、この点は別の機会に論ずることにする。(じゃあ今までの議論は何だったんだ……)

中学受験塾の「出てこい、未来のリーダーたち」という宣伝文句を見るたびに苦々しい気持ちになります。

第3章 道徳的制約と国家〈道徳理論の非決定性〉 

・道徳面で人間を動物から区別するものは何か。たとえば、上位の存在には功利主義、下位の存在には付随制約という階層付けを考えると、三つの道徳的地位を区別することになる。
(地位1)最上位。この存在は他のいかなる存在の手段として扱ってはならない。
(地位2)中間。上位の存在のためには犠牲にされてよいが、同位や下位の存在のためには許されない。
(地位3)最下位。他のいかなる存在のためにも犠牲にされてよい。
・直感的に人間は地位1であると言いたくなるが、いったいなぜそのようなことが言えるのか?
・また、人間を地位2に置くエリート主義的改装秩序説と絶対的付随制約説とは、実は人間がまだ地位1に出会ったことがないのだと考えれば、現実の道徳判断のほぼ全てを同じように説明できるだろう。

倫理感がゼロの発言 

少子化対策は、耳心地のよい名前ではなく、「ゴム無し中出しセックス推進政策」くらいに直接的に言ってほしい。

・ 

現に生まれてきた子どもを支援する政策は理解できるが、子を産ませようとする政策には本能的な反発を覚える。

第3章 道徳的制約と国家〈経験機械〉 

・功利主義の難点を考えるために(りーふメモ:経験機械の話が突然出てくるのは功利主義批判のためだと私は思っているが、いかんせん唐突すぎるので確信がない)、どんな経験も与えてくれる経験機械を考える。
・直観的には経験機械に繋がれたいとは思われないが、第一に、我々は何らかの事柄を「行いたい」のであって、経験だけが欲しい訳ではないからである。
・第二の理由は、我々が特定の形の存在・人格でありたいと思うからである。経験機械に繋がれてタンクの中を漂っていては何者でもない。
・第三の理由は、経験機械といえども現実の深さは再現できない、逆に言えば、現実との接触を保つことによって予想外の経験をしたいと思うからである。(りーふメモ:予想外の経験もさせる経験機械も原理的に考えられるので、この理由は説得的ではないと思う。)
・自分が特定の仕方で存在したいという願望には「変身機械」、世界に差異を生じさせたいという願望には「結果機械」を考えられるが、いずれも直観的には使いたいとは思われない。このことから、我々が望んでいるのは現実に触れながら自分自身を生きることである、ということが分かる。

次は倫理学で有名な「経験機械」が出てくる。

第3章 道徳的制約と国家〈動物と制約〉 

・付随制約の理論的地位と含蓄を解明するためには、厳格な付随制約が妥当しないとされている存在、つまり人間以外の動物を考えればよい。

(このあと10ページに渡って色々論じられており、内容自体はともかくなぜそれを論じているのか趣旨が全くわからない……)

私個人は男性的とされる要素のうちいくらかのものをうっすら嫌っているが、だからといってミサンドリーが道徳的に正当化されるものではないだろう。

リバタリアンは政治的実践としてはとうてい支持できるものではないが、主張の歯切れの良さ、力強さには感服せざるを得ない。

仮にもミサンドリーを肯定的に緩く勧められるのであれば、ミソジニーも肯定的に緩く勧められるはずであるが。

第3章 道徳的制約と国家〈自由尊重主義的な制約〉 

・付随制約の考え方は、個人が別々の存在であり、個人ごとの道徳上の価値の比較はできない、という事実を反映している。(りーふメモ:効用の個人間比較の不可能性を言っているのだろうが、これは「事実」ではないのでは?)

その他、本筋とは関係なさそうなこと。

・付随制約の考え方を否定するのであれば、3つの選択肢のどれかの形をとるはずである。
(1)すべての付随制約を否定する。
(2)付随制約が存在する別の理由を出す。
(3)個人が別々の存在であることを認めつつ、ある特定の誰かの犠牲により他の人の善を増やすことの正当性を主張する。
・個人が別々であることからは、直接、誰かを犠牲にしてその他の人の道徳的善を増やすことの非正当性が導かれるが、不干渉の原則までは直接は言えない。
・不干渉の原則は国家間関係の文脈でよく言われるが、個人の関係にも言えることである。
・他人に対する攻撃(=権利の侵害)は、正当防衛の禁止までは含まない。

第3章 道徳的制約と国家〈なぜ付随制約なのか〉 

・個人の権利の侵害を、最小化すべき目的関数ではなく、付随制約として捉えることは合理的なのだろうか? その理論的根拠はなにか?
・理論的根拠としてはカントの定言命法がある。(なお、厳密な意味での「他人を目的として利用してはいけない」ではなく、政治哲学においては「他人を特定の方法(主に物理的な攻撃)で利用してはならない」にのみ関心がある。)
・理論的根拠は上記のとおりであるが、その理論的根拠から付随制約として捉えることは正当化できるのか? たとえば、他のもっと広汎な権利侵害を防ぐためにある特定の権利侵害を許容することは、一見したところ、許されてもよいように思われる。
・しかしながら、「社会全体の善のために個人の権利を犠牲にする」といったところで、善を伴う社会的実態というものは存在しない。端的に、別の人の利益のためにある特定の人が犠牲になっており、その人はそれ以上の善を得ることはないのである。これはカント的定言命法に従う限り正当化できるものではない。

マストドンってツイッターより大人なイメージがありませんか?(という印象を持つのは、単に私自身が高校生のときにツイッターを始めたからという説はあります。)

延々と読書メモを書いているけど誰の役に立つのか。いや、自分の考えを整理できるから自分にとって有用でそれだけでいいのではあるけど。

第3章 道徳的制約と国家〈道徳的制約と道徳的目的〉 

・道徳的主張があるとき、それが目的として主張される場合と制約として主張される場合とがある。
・例えば「他人の権利を侵害してはいけない」という道徳的主張に関して言えば、目的として主張される場合というのは、各人の権利侵害の度合いの(加重)総計を最小化せよ、ということになる。(「権利功利主義」といえば分かりやすい。)
・一方で、制約として主張される場合とは、「他人の権利を侵害してはいけない」という制約を満たすように行動せよ、ということになる。
・この区別により、前節で超最小国家の擁護論が一貫していないと言ったのは、暗黙のうちに目的としての主張を想定していたことがわかる。制約としての主張と捉えるのであれば一貫性のある立場となる。

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