この休みで疲れてめちゃくちゃ寝てしまったが、心疾患のリスクをそれで減らせるとは、、、
https://www.medicalnewstoday.com/articles/catching-up-weekend-sleep-lower-heart-disease-risk-study
#好きなL特急&ブルートレイン
さくら
今振り返ったら、何言うてたん、という話。
QT: https://fedibird.com/@knappertsbuch/113104856721500081 [参照]
兵庫の公明党が100条委員会には反対してたことはお忘れなく。
関西の学会の判断、だから。
デカルトと言えば、教科書的には「近代科学」、「近代合理主義」の出発点とされます。しかし、これも事はそう単純ではありません。
まずデカルトの数学的意義について。デカルトは「幾何学」を基礎づけたのではない。ユークリッド幾何学をアラビア代数学と結合させた点が重要。従って高校数学でも「代数・幾何」という科目がある。
またデリダ=フーコー論争でも問題になったように、デカルトの「懐疑」は、懐疑論者ヒュームでさえ「確実」とした「算術」をも疑い得る、とする程徹底したもの(尚、ヒュームは幾何学は明証性に欠くとした)。
倫理についても「政治共同体」への所属は自明であったアリストテレスとあくまで「私の意識」を焦点としたデカルトは異なります。
しかし、デカルトの方法的懐疑は、不確実な情報も森の中で「この私は如何に生きるべきか」というストア主義的倫理と結びついていた。
16世紀末から17世紀初頭にオランダでリピシウスが人文主義的文献学によって新ストア主義と「政治学」を確立。17世紀のオランダはコンリング、プーフェンドルフ、トマジウス、ロック、ホッブス、スピノザなどが亡命する「知の中心」。
やはり、オランダに半ば亡命したデカルトも、この新ストア主義に大きな影響を受けることとなる。
小泉進次郎が総裁選公約で「解雇規制の見直し」を出して来た。これは「ついに来たか」という感慨である。
考えて見れば小泉父の際に始まった派遣労働規制の撤廃によって、現在日本の労働者の4割が非正規、20代、女性では5割を遥かに上回る。
日本はドイツと異なり法律上の解雇規制はなく、判例と慣習によって「ある程度」経営側による一方的な解雇が規制されてきたに過ぎない。
小泉は「大企業に限る」などと超テキトーなことを言っているが、一旦解雇規制の撤廃が始まれば、あれよあれよという間に中小企業にも広がり、米国並みになるだろう。
「正社員」切りは30年前の「新時代の日本的経営」の立案者達の「真の意図」だった。その際は政治的力関係でそこまではやれなかったが。
ただ、それでいて、軍需企業や日本製鉄、電力会社、三菱系、住友系、三井系などのごく一部の大企業だけが「終身雇用・年功序列」に守られた「労働貴族」として残ること、これは間違いない。
そう考えて見ると、旧財閥と軍需産業という意味では、経済・雇用という点でも「戦前」に回帰することになる。
異なる点では戦前には人口の多数を占めた農業、零細自営業の余地がほとんどないこと。
しかし、正社員の解雇規制の撤廃となると政治的には完全にカオスだろう。
"The Israeli army is destroying civilian infrastructure, blocking medical access, and conducting mass arrests in its largest West Bank operation in years"
By Mariam Barghouti (September 4th): https://www.972mag.com/jenin-operation-summer-camps/ @palestine @military
#collectivePunishment #Jenin #refugees #militancy #israelPalestine #Palestine #WestBank #terrorism #counterTerrorism #Zionism #israel #JewishSupremacy #revenge #retribution #warOnPalestine #OPT #grievability #israelWar #israelWars #DefundIsrael #PalestinianLivesMatter #IDF #warCrimes #972Mag
このような「科学」を装った新自由主義の正当化あるいは今日見られる「テクノロジー教」に対して、一般市民はどのように対処すべきでしょうか?
勿論、科学やテクノロジーの専門家が当該科学命題の「妥当範囲」を常に批判的に把握し、一般市民に伝えることが重要であることは言うまでもない。しかし、科学も今や限りなく専門分化し、その全てに対応するのは難しく、ましてや専門家の真っ当な「警告」をメディアが遮断することも多い。
このような状況で科学・テクノロジー万能の国、米国で70代に起こったのが、アリストテレスの実践哲学の復興です。
アリストテレスは数学をモデルとして「絶対的な」真ではなく、不確定な政治社会に生き、不断に判断、実践しなければならない領域に対する態度を「phronesis 賢慮」と呼び、この賢慮を以て実践倫理のモデルとした。
この動きはベトナム戦争を正当化する専門の政治学者への批判とも結びついた。この「賢慮」は反省された意味での「常識」に近い。
現在の分かりやすい例は「生命の目的は多くの遺伝子を残すこと」という進化生物学の俗説に対する態度。これは個々人が「心」に問うことで、偽りであることがわかる。
その意味で、デカルトの「コギト」、専門知に対する民主的批判としても応用できる。
A qualified Psychiatrist, working in Tokyo.
love classical music, trout fishing and nature.
Never War.