アイスランドが国民の遺伝子情報を一企業に委託していることはご存じの方も多いのでは。
映画「湿地」はこの状況を背景にしたサスペンス映画。サスペンスとしても良くできていますが、その過程で「生命倫理」的な問いを浮かび上がらせている、という点でもうまい映画だと思います。
それにしても、「新生児医療」に携わっている友人から、アイスランドでは、現在、ほぼ「ダウン症」がゼロで移行しており、おそらくそのままの率で進むだろう、という話を聞いて複雑な気持ちになったことを思い出しました。これはもちろん、「出生前診断」によるものです。
昨今、「確信犯」のメディアのみならず、世間、あるいは学生のなかにも、むやみに「遺伝」ですべての問題を語ろう、とする傾向が強まっていることには危機感を感じます。
とくに医学部系の学生は、ほぼ完全にそれがデフォルトになっており、ほとんど優生思想と区別がつかない場合も多い。
現在の優生思想は新自由主義による格差の正当化に明らかに寄与しており、新自由主義と優生思想との共犯関係を批判する必要性を強く感じます。
とりわけ、分子生物学者や遺伝学者(の一部)はみずからの「学問」の「エビデンス」を逸脱して事実上「優生思想」に踏み込んでいる場合も多く、きわめて深刻な問題だと感じます。
このような「科学」を装った新自由主義の正当化あるいは今日見られる「テクノロジー教」に対して、一般市民はどのように対処すべきでしょうか?
勿論、科学やテクノロジーの専門家が当該科学命題の「妥当範囲」を常に批判的に把握し、一般市民に伝えることが重要であることは言うまでもない。しかし、科学も今や限りなく専門分化し、その全てに対応するのは難しく、ましてや専門家の真っ当な「警告」をメディアが遮断することも多い。
このような状況で科学・テクノロジー万能の国、米国で70代に起こったのが、アリストテレスの実践哲学の復興です。
アリストテレスは数学をモデルとして「絶対的な」真ではなく、不確定な政治社会に生き、不断に判断、実践しなければならない領域に対する態度を「phronesis 賢慮」と呼び、この賢慮を以て実践倫理のモデルとした。
この動きはベトナム戦争を正当化する専門の政治学者への批判とも結びついた。この「賢慮」は反省された意味での「常識」に近い。
現在の分かりやすい例は「生命の目的は多くの遺伝子を残すこと」という進化生物学の俗説に対する態度。これは個々人が「心」に問うことで、偽りであることがわかる。
その意味で、デカルトの「コギト」、専門知に対する民主的批判としても応用できる。
デカルトと言えば、教科書的には「近代科学」、「近代合理主義」の出発点とされます。しかし、これも事はそう単純ではありません。
まずデカルトの数学的意義について。デカルトは「幾何学」を基礎づけたのではない。ユークリッド幾何学をアラビア代数学と結合させた点が重要。従って高校数学でも「代数・幾何」という科目がある。
またデリダ=フーコー論争でも問題になったように、デカルトの「懐疑」は、懐疑論者ヒュームでさえ「確実」とした「算術」をも疑い得る、とする程徹底したもの(尚、ヒュームは幾何学は明証性に欠くとした)。
倫理についても「政治共同体」への所属は自明であったアリストテレスとあくまで「私の意識」を焦点としたデカルトは異なります。
しかし、デカルトの方法的懐疑は、不確実な情報も森の中で「この私は如何に生きるべきか」というストア主義的倫理と結びついていた。
16世紀末から17世紀初頭にオランダでリピシウスが人文主義的文献学によって新ストア主義と「政治学」を確立。17世紀のオランダはコンリング、プーフェンドルフ、トマジウス、ロック、ホッブス、スピノザなどが亡命する「知の中心」。
やはり、オランダに半ば亡命したデカルトも、この新ストア主義に大きな影響を受けることとなる。