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習志野には関東大震災後、朝鮮人だけではなく中国人も収容された。

9月4日、大島町での中国人虐殺を把握した警視庁は死体処理及び中国人保護を軍に要請する。同日、戒厳司令部は「支鮮人を習志野旧捕虜収容所へ収容する」命令を出す。

各部隊は警備区域の鮮人を「適時収集し、国府台に逓送」し、習志野衛戌地残留部隊は国府台で鮮人を受けとり、廠舎に送り届ける事になった。

9月5日午前4時から第三旅団の参謀となった遠藤三郎最初の仕事は、習志野へ行って中国人・朝鮮人を習志野へ送り届ける件を交渉する事であった。習志野の警備司令官騎兵第二旅団長陸軍少将三好一を訪問した時のことを遠藤は回想している。

「こういう事になりましたからと報告したのです。すると「何だと!」と机をなぐって「俺のところには機関銃一丁もない。みな討伐に出してしまった。それに8,000人も朝鮮人、支那人がここに来たらどうするのか。警備できやせんじゃないか」と。そういう空気だったですよ。

陸軍少将がね、暴動でも起こすと思っている。…その陸軍少将があれほど怒ったのには私もびっくりしている。(1978年のインタビュー)」遠藤日記は、正午頃協議が終わった事が記されている。

国府台の野戦重砲兵第七連隊では、9月3日、中国人350名を収容したが、5日、習志野廠舎に収容換えをした。習志野の統計では、9月5日東部廠舎朝鮮人549名、中国人874名、計1,423名である。

6日、大島三丁目在住の中国人700名は警察官百余人に包囲捕縛され、習志野に送られた(「中華新報」10.13)これが「適時収集」の実態であった。

習志野では最大で4,771名(朝鮮人3,079名、中国人1,692名/9月17日)を収容した。

習志野では中国人は朝鮮人、日本人と隔離された。

ある時中国政府の代理公使が習志野を訪問した。代理公使は片足に包帯をして寝ている者にどうしたか聞くと通訳が「負傷しました」と応える。どうして負傷したのかと聞くと、周囲の者が口を揃えて「地震の時家の下敷きになりました」と答えたので、代理公使は帰り際に「傷害された者は何人か」と聞いている。その労働者は「ひとりもいません。」と答えた。

これらは代理公使が来るまでに用意された演出で、視察が来る朝は大掃除をさせられ、一切被害について話してはならないと口止めされ、中国語の分かる日本人がついていて、もし話をしようものなら酷い目にあうのだと上海に帰ってから、労働者達は王兆澄に訴えている。

習志野収容所ではすべての郵便物の検閲が行われ、収容所内部から王兆澄に出した手紙も、王兆澄が収容所の中国人労働者に宛てて王希天の調査依頼をした手紙も押収された。

「戒厳司令部詳報」には、警備部の記録として、津田沼郵便局が東京通信局の命令だと言って検閲の仕事を拒否してきた事が記されている。結局検閲は行われたが、ここには信書の秘密を守るための通信局の抵抗の姿勢が示されている。

実際に収容された者は「…習志野在営中は牢獄同様で、一日に卵大にぎり飯三個、平時の一食にも足りない。夜は石の枕、板の上で寝た。天気は寒暖常ならず病人がたくさん出た。兵士は残忍で少しの事で鞭や棍棒がとぶ。中国人の持ち物はみな取り上げられた。
中国語のわかる探偵がそばで監視し、公使や領事やその他の代表が来ても事情を告げる事は出来なかった。」と証言している。(温州同卿会緊急会議の席での呉進明の話/「時報」10.18)

「震災下の中国人虐殺/仁木ふみ子さん(青木書店)」より

まっちゃん M.D. さんがブースト

きょう久しぶりに線量計持って歩いてみた。クルマ移動メイン、4時間弱でだいたいこんな感じ。ちなみに3.11より前は毎時0.03とか0.05とかだったそう。13年という月日のチカラでしかないけれどまだまだ元通りというわけにはいきません。

札幌の東区は30年以上前はまだ大分玉ねぎ畑だらけだったのに、今は住宅地だらけ。

34年前に転入届を出して、23年前に入籍届けを出したお役所でした。
QT: fedibird.com/@tomouchi00011/11
[参照]

Tomoyuki Uchiyama  
札幌市東区役所食堂のざるうどん。タマネギのキャラクターを見ると東区に来たという感じがする。#fedibird

最近は田園がベートーヴェンの交響曲の最高傑作な気がしてる。
良過ぎるもん。

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 予想通り小沢が野田支持を表明したらしい。つまり小沢も維新との「共闘」を選んだ、ということ。

 ところで提灯学者の山口二郎は「中道保守の結集」などと痴れ言を宣っていたが、維新は紛れもない極右。

 大阪・神戸の人なら良く知っていると思うが、「維新」は基本自民党の2世・3世を中心にした「ギャング集団」である。「ヤンキー」などというかわいいものではない。

 「ギャング」は法の抜け穴をよく知っているだけにたちが悪い。現在の兵庫県知事(維新)も、常識的にはとっくに辞任している筈だが、法の強制力がないことを利用して居座り続けてている。これを援護射撃しているのが、ZEN大学副学長予定の上山信一である。

 兵庫では県知事の「パワハラ」で少なくとも2人が自殺に追い込まれたが、大阪では現在までに10人近くが「イジメ殺された」と見られている。

 この極右「ギャング」集団と国政レベルで共闘などととは、仮に立憲が「リベラル」ならあり得ないこと。結局立憲多数派の「メッキ」が剥がれて地金が出てきたということだろう。

 しかし自民党も宏池会的リベラルは圧倒少数とあっては、どうも日本の代議制システムそのものが機能不全と言う他ない。

 本来それを批判するべきメディアが朝日を筆頭にそれに加担しているだから、世も末感漂う。

殺すとか虐殺とかのワードてんこ盛りだが、YouTubeのAIが削除したら許さない。

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昨年。小池さんのこの動画、永久保存レベル。
QT: fedibird.com/@knappertsbuch/11
[参照]

まっちゃん M.D.  
小池さん、王希天さん殺害の場所まで行ってはる。 真上通るたびに必ず祈る。 https://www.youtube.com/watch?si=-iuNY33Sjjd5x8FR&v=sImTGrkqZU4&feature=youtu.be
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「サラリーマンは寝て稼げ」という広告は、1年くらい前から電車内で見るようになって「あほらし」と思っていた。

 しかし、学生達から「今は不労所得はいい意味で使うのですよ」と言われて、半信半疑で調べて見ると、確かにAMAZONで「不労所得のすすめ」とか「不労所得であなたも億万長者に」とかいう怪しい本がやたら並んでいる。いやはや。

 今はやりの「レント資本主義」の日本における実態、というとこか。
 しかし、「不労所得」で人生を全うすること、これは可能でもなければ望ましくもない。(金融資産5億以上あれば可能かもだが)。

 「不労所得」を規範として共有してしまった社会は、近々崩壊することも間違いない。

 他方、これはハイポリテックスの文脈では、日銀が株式・国債から撤退する分を家計貯蓄で埋め合わせようということ。

 日本の家計貯蓄は総額で2千兆円。これは高度経済成長の遺産でかなりの額。これを担保にして東証株価の調整を行おうという腹だろう。しかし、現在乱高下する投機市場ではあっという間に雲散霧消する可能性も捨てきれない。

 また世界システム論的に言えばレント資本主義が可能なのは、英国・米国などの覇権国家だけ。軍事力、国際基軸通貨特権、国際機関の支配、ゲームメーカー、英語。日本は全て欠けている。

 

ご自分の足で巡るのはとても大切なこと。
与党政治家はこういうことしてるか。

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警視庁は事件翌日には概要を把握し、軍に、加害者を軍隊と自警団(警察は入れていない)として、死体処理と中国人保護を要請しています。

警視庁広瀬外事課長直話は次の通りです。

「目下東京地方にある支那人は約4,500名にして内2,000名は労働者なるところ、9月3日大島町7丁目に於いて鮮人放火嫌疑に関連して支那人及朝鮮人300名乃至400名3回に亘り銃殺又は撲殺せられたり、…右支鮮人の死体は4日まで何等処理せられず、警視庁に於ては野戦重砲兵第3旅団長金子直少将及戒厳司令部参謀長に対し、右死体処理方及同地残余の200名乃至300名の支那人保護方を要請し、とりあえず鴻の台(国府台)兵営に於て集団的保護をなす手筈となりたり。… 尚全管内の支鮮人の保護は軍隊警察に於て之に当り管下各警察に対してはそれぞれ通達済みなり。」

戒厳令司令部は、即刻森五六参謀を現地に派遣しました。

森五六は「江東の大島地区で、中国人土工約200名が日本飯場土工により虐殺されたのを現場検証した」と1962年11月21日、京大人文科学研究所で話している(「関東大震災下の朝鮮人虐殺」/「思想」1963年)

田辺貞之助は5日朝、番小屋勤めの後、誘われて死体を見に行くのだが、石炭殻で埋め立てた4-500坪の空地に「東から西へ、ほとんど裸体に等しい死骸が頭を北にして並べてあった。数は250と聞いた」(「江東昔ばなし」)と書いている。この情景は検屍のあとのものであるから現場検証は9月4日である可能性が高い。

高梨憲輝が避難した義兄の家は、この広場の近くであった。彼は4日の夜そこへ行き屍山血河鬼気迫る情景に息をのむ。
「ある人は300体ぐらいあるだろうといい、またある人は300体ではきかないといっていた」(「関東大震災体験記」1974年)と回想する。

田辺も高橋も、若い女が腹をさかれ、6-7か月の胎児がはらわたの中でころがって、女の陰部に竹槍が刺さっているのを目撃して衝撃を受けている。中国人労働者達は男性、単身で来日する事が殆どで、日本でパートナーに出会う事になるため、この女性は中国人ではない可能性が高い。

死体は検屍後も放置され、5日夜半から7日までにかかって焼却されました。

大島の仕事師田中某が人夫達を使役してこの仕事をすすめます。

警察の指揮のもと行われ、署長は「自動車ポンプに乗って現場を監視」した(木戸四郎の話)。 八島京一は清一巡査から「外国人が亀戸管内に視察に来るので、その死骸320人を焼くのだ」と聞いています。

田辺貞之助は「江東昔ばなし」に、6日夜明け、脂っこい新鮭を焼くような臭いが町中にひたひたとつつむ不気味さを書いています。

死体焼却を行った大島の仕事師田中某とは誰か。

田中伝五郎、大島消防組第二部長である可能性が高い。

仕事師とはとび職の事。田中は土木建築請負業兼とび職で、相当の家作と土地を持っていて、「大勢の雇人と配下を常用し」繁盛していたといいます。

消防団は地元の名士が多く、土地を持ち、宿舎を運営していた。

自ら運営する宿舎に住む中国人達を直接的にか間接的にか、その虐殺に関与していた可能性が高い。

大島では、この八丁目の虐殺以外にも、複数各所で虐殺が発生しています。

「震災下の中国人虐殺/仁木ふみ子さん(青木書店)」
「関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する/田原洋さん(岩波書店)」
「関東大震災と中国人虐殺事件/今井清一さん(朔北社)」より

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大量殺戮の現場なのに、犠牲者の方々への追悼碑や慰霊碑、祈念のよすがもないんです。
都民として本当におかしいと思います。
QT: rockcd.jp/@fukuyoken3daime/113
[参照]

fukuyoken3daime  
1923年9月3日8時頃、ちょうど今頃、2発の銃声が東京江東の大島町で鳴り響きます。その日、大島町八丁目付近の住民は外に出るなと命じられていました。 二発の銃声は、青年団から引き渡された二名の中国人を軍隊が射殺したものでした。 そしてそれが合図であるかのように、中国人達が宿舎から引き立てられ...
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1923年9月3日8時頃、ちょうど今頃、2発の銃声が東京江東の大島町で鳴り響きます。その日、大島町八丁目付近の住民は外に出るなと命じられていました。

二発の銃声は、青年団から引き渡された二名の中国人を軍隊が射殺したものでした。

そしてそれが合図であるかのように、中国人達が宿舎から引き立てられて行きます。

行先は八丁目の広場でした。

まずは六丁目の中国人宿舎の中国人労働者が屋外に整列させられ、八丁目へ裏通りを引き立てられていきます。大勢の民衆が兵士たちと共に取り囲んで行くのを近所の主婦たちが「どこへ連れて行かれるのだろうか」などと言いながら目撃していました。

この広場では、その後、引き立てられてきた中国人達が殺されて行きます。午後3時が最も酷かったと言います。

昼頃、八丁目の宿舎に大勢の軍隊、警察、青年団、浪人たちがやってきます。

「金を持っているやつは国に帰してやるからついてこい」といって174名を連れ出します。

近くの空地に来ると「地震だ!伏せろ!」と言って全員を地面に伏せさせ、手にしていた鉄棒、鳶口、つるはし等で殴り殺しました。

この時、耳を断ち切れれ、頭に重傷を負いながらも死体をかきわけて逃げ出して蓮池のかげに隠れ、その後も暴徒に襲われながらも七丁目まで逃げ延び、駐在に助けられた後に習志野収容所に送致され、重症のまま帰国し、その数年後この傷が元で死亡した黄子蓮がこの事件唯一の生存者です。

この事件を目撃した木戸四郎さんは、「5,6名の兵士と数名の警官と多数の民衆とは、二百名ばかりの支那人を包囲し、民衆は手に手に薪割り、とび口、竹槍、日本刀等をもって、片はしから支那人を虐殺し、中川水上署の巡査の如きも民衆と共に狂人の如くなってこの虐殺に加わっていた。二発の銃声がした。あるいは逃亡者を射撃したものか。自分は当時わが同胞のこの残虐行為を正視する事が出来なかった。」と、そして、民衆がその財産を競って掠奪したこと、また、大島町付近には朝鮮人は少なく、中国人は近年多数この地方に定住しているので、これを朝鮮人と誤認することはあり得ないと1923年10月18日に現地調査に来た丸山伝太郎に証言しています。

『戒厳司令部詳報』には「午後3時頃、野重第一連隊第二中隊の岩波少尉以下69名、騎兵一四連隊三浦孝三少尉以下11名は、群衆と警官4、50名が、『約200人の鮮人団を連れて来て、その始末を協議中』のところへ行き合せて全員殺害した。」というような記録があります。備考欄に「本鮮人団、支那労働者なりとの説あるも、軍隊側は鮮人と確信しいたるものなり」とわざわざ断っています。兵士80人も参加したこの虐殺がいかに凄惨だったかを想像してください。

集まって見ていた者達が、20人、30人ずつ連れてこられる中国人をみて、「ほらまた来た、あっちからも来た」などと言っていたという証言もあります。

当時大島七丁目に住んでいた岩崎留次郎さんは、9月3日、避難民の炊き出しに追われていましたが、夕方、虐殺現場に行きます。「中国の人々は、幾重にも取り囲まれて逃げられるような状態ではなかったよ。無残な事だった。」と証言しています。

虐殺は、朝から日が暮れるまで行われていた事になります。

9月2日、事件前夜の事として、6丁目の主婦が、地震の後に自警団、在郷軍人らしき人物が何度も中国人労働者の宿舎に来て、一同を門外に呼び出し、整列させ、人員点呼し、「一人でも減ってはならない」と言っていた事、所持金の額を確認していた事を、前述の丸山伝太郎に証言しています。
ただ、1923年の関東大震災時、当地では9月2日にはまだ自警団は組織されていなかったため、この集団は、在郷軍人、消防、青年団、日本人同業労働者などではないかと考えられています。

前述の岩崎さんは、9月2日、在郷軍人の組織を通して町内在住の中国人の人数を報告しなければならなかった事、所持品の検査をした事を証言しています。

また、当地では消防団が活躍しその後表彰されている事からは、活動の主力は消防団であった可能性があります。

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「朝日」に「質問!ドラえもん」というコーナーに28日、下の文章が掲載されている。

「白票(はくひょう)

 投票(とうひょう)をしない棄権(きけん)と違(ちが)って、投票(とうひょう)に行(い)ったうえで白紙(はくし)のまま投票(とうひょう)する。無効(むこう)にはなるけど、白票(はくひょう)で政治(せいじ)への不満(ふまん)を示(しめ)すこともあるんだ。」

 どうも朝日を含めた権力側、なりふり構わず、しゃにむに自民と立憲・維新連合の二択しかない、というメッセージを刷り込みにかかっているようだ。

 要するに、立憲・維新連合(野田路線)に「不満」がある人達は、共産に投票するな、ということ。

 確かに小選挙区では共産当選の可能性は低いが、政権批判票が万が一にも比例で共産に集中しないように、という配慮だろう。

 自民の得票数自体は減り続けているため、森喜朗が「有権者は家で寝ていてほしい」とありていに発言したのと同じ発想である。

 同じ発想と言えば東浩紀が「積極的棄権運動」なるものを提起し、千葉雅也もこれを援護射撃していることがあった。

 こうなると、残る選択肢はリベラルが離党して、左派との同盟を選択するしかない。これは「希望の党」騒動と同じ構図。とは言え、自ら動ける可能性はかなり低いだろう。

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