1923年9月3日8時頃、ちょうど今頃、2発の銃声が東京江東の大島町で鳴り響きます。その日、大島町八丁目付近の住民は外に出るなと命じられていました。

二発の銃声は、青年団から引き渡された二名の中国人を軍隊が射殺したものでした。

そしてそれが合図であるかのように、中国人達が宿舎から引き立てられて行きます。

行先は八丁目の広場でした。

まずは六丁目の中国人宿舎の中国人労働者が屋外に整列させられ、八丁目へ裏通りを引き立てられていきます。大勢の民衆が兵士たちと共に取り囲んで行くのを近所の主婦たちが「どこへ連れて行かれるのだろうか」などと言いながら目撃していました。

この広場では、その後、引き立てられてきた中国人達が殺されて行きます。午後3時が最も酷かったと言います。

昼頃、八丁目の宿舎に大勢の軍隊、警察、青年団、浪人たちがやってきます。

「金を持っているやつは国に帰してやるからついてこい」といって174名を連れ出します。

近くの空地に来ると「地震だ!伏せろ!」と言って全員を地面に伏せさせ、手にしていた鉄棒、鳶口、つるはし等で殴り殺しました。

この時、耳を断ち切れれ、頭に重傷を負いながらも死体をかきわけて逃げ出して蓮池のかげに隠れ、その後も暴徒に襲われながらも七丁目まで逃げ延び、駐在に助けられた後に習志野収容所に送致され、重症のまま帰国し、その数年後この傷が元で死亡した黄子蓮がこの事件唯一の生存者です。

この事件を目撃した木戸四郎さんは、「5,6名の兵士と数名の警官と多数の民衆とは、二百名ばかりの支那人を包囲し、民衆は手に手に薪割り、とび口、竹槍、日本刀等をもって、片はしから支那人を虐殺し、中川水上署の巡査の如きも民衆と共に狂人の如くなってこの虐殺に加わっていた。二発の銃声がした。あるいは逃亡者を射撃したものか。自分は当時わが同胞のこの残虐行為を正視する事が出来なかった。」と、そして、民衆がその財産を競って掠奪したこと、また、大島町付近には朝鮮人は少なく、中国人は近年多数この地方に定住しているので、これを朝鮮人と誤認することはあり得ないと1923年10月18日に現地調査に来た丸山伝太郎に証言しています。

『戒厳司令部詳報』には「午後3時頃、野重第一連隊第二中隊の岩波少尉以下69名、騎兵一四連隊三浦孝三少尉以下11名は、群衆と警官4、50名が、『約200人の鮮人団を連れて来て、その始末を協議中』のところへ行き合せて全員殺害した。」というような記録があります。備考欄に「本鮮人団、支那労働者なりとの説あるも、軍隊側は鮮人と確信しいたるものなり」とわざわざ断っています。兵士80人も参加したこの虐殺がいかに凄惨だったかを想像してください。

集まって見ていた者達が、20人、30人ずつ連れてこられる中国人をみて、「ほらまた来た、あっちからも来た」などと言っていたという証言もあります。

当時大島七丁目に住んでいた岩崎留次郎さんは、9月3日、避難民の炊き出しに追われていましたが、夕方、虐殺現場に行きます。「中国の人々は、幾重にも取り囲まれて逃げられるような状態ではなかったよ。無残な事だった。」と証言しています。

虐殺は、朝から日が暮れるまで行われていた事になります。

9月2日、事件前夜の事として、6丁目の主婦が、地震の後に自警団、在郷軍人らしき人物が何度も中国人労働者の宿舎に来て、一同を門外に呼び出し、整列させ、人員点呼し、「一人でも減ってはならない」と言っていた事、所持金の額を確認していた事を、前述の丸山伝太郎に証言しています。
ただ、1923年の関東大震災時、当地では9月2日にはまだ自警団は組織されていなかったため、この集団は、在郷軍人、消防、青年団、日本人同業労働者などではないかと考えられています。

前述の岩崎さんは、9月2日、在郷軍人の組織を通して町内在住の中国人の人数を報告しなければならなかった事、所持品の検査をした事を証言しています。

また、当地では消防団が活躍しその後表彰されている事からは、活動の主力は消防団であった可能性があります。

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