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「頭を空っぽにして楽しめる純粋な娯楽作品」って、めっちゃくちゃ政治的だな。

だが、哲学や政治性を欠いた表現者に「頭を空っぽにして楽しめる純粋な娯楽作品」を創造出来るのだろうか??
x.com/sho_ho_Yamasan/status/18

は風刺SFみたいなもので、過去の制度や人々の口を借りて現在の問題を風刺する基本構造がある。しばしば登場人物の感覚や物言いがあまりに現代的と感じられるのはそのためで、まあ、それはそれで作品の作り方としてアリだとは思う。
ただ一方、作品内で描かれる結論がわりと保守的だったり緩かったりしても「まあ昔の話だからね」「当時ならこれでもすごい」として許されるダブルスタンダードな受け入れ方を多くの視聴者がしており、それは結構ずるいなと思う。
今日のLGBTコミュニティの描写はまさにそれだった。彼らの関係性や考え方は今のEテレで流れてもおかしくないほど現代的なのに、一方でトランスの解釈は一昔前の感じが強い。これが現代的な風刺劇として楽しまれつつ、一方で古い解釈は昔の話だからと許されるのはかなり危うい感じがした。トランスにかんしては現実の状況が危機的なので、もう少しちゃんとしてほしかった。当事者を起用してるのは偉いけどね。

mainichi.jp/articles/20240819/
一時期、2024年問題!働き手の不足!と騒がれていたけど、そりゃ働く人が少ないのも当然だろうって事案。

わたしが言っても参考になるかわからないけども、男性であれば女性嫌悪はあるし女性であれば男性嫌悪はあって当然だと思うんですよ。嫌悪というか不可解さとか立ち入れなさみたいなものね。疎外感かもしれない。だいぶ違うからね、色々。

それをどう消化、昇華、表出するか、しないかというところでミサンドリー、ミソジニーと呼ぶかどうか決まる気がする。わからないから相手の性でまとめてレッテル貼りをするとか決めつけで下に見るとかしたらそれは差別だと思う。

人間はわからないものをわからないままにしておくのが超絶苦手なんですよ。わからないことを認識すらしたくない。だから一番広く網を張れて認知資源を消費しない「あいつら人間じゃない」に飛びつく。無意識にやる。だから気がつけない。わたしもあなたもそう。

そういうことを時々思い出すだけでもミサンドリー、ミソジニーに陥った時に反省して考えや言動を改めるきっかけになるんじゃないでしょうか。

「英内務省は18日、労働党新政権による戦略見直しの一環として、過激なミソジニー(女性嫌悪、女性蔑視)を過激主義の一形態として取り扱うと発表した。

イヴェット・クーパー内相は、過激主義戦略の再検討を省内に求め、有害な思想がもたらす脅威への最善策を模索するよう指示した。

この分析では、女性に対する憎悪を一つの思想的な傾向として扱う。イギリス政府は、ミソジニーが一部で勢いを得ていると指摘している」

bbc.com/japanese/articles/cevj

Youtubeぐち 

Youtubeにあらゆる歴史修正主義援護がいろんな意味で増えていて最悪
そういうのを面白いと見てしまうし問題と思わない人もいるのが最悪
反差別、反植民地主義のYoutuber増えてほしいですよ、ほんと
#植民地主義に反対します
#歴史修正主義に反対します

ゆーちゅーぶに あらゆる れきし しゅうせい しゅぎえんごが いろんないみで ふえていて さいあく
そついうのを おもしろいと みてしまうし もんだいと おもわないひとも いるのが さいあく
はんさべつ、はんしょくみんちしゅぎの ゆーちゅーばー ふえてほしいですよ、ほんと

まだ1章だけど、圧倒的に素晴らしい本。「男女の遺伝的な違い」に対して、科学哲学の立場からアプローチしてる。

最近、岩波ジュニア新書づいていますが。

平賀緑『食べ物から学ぶ世界史』『食べ物から学ぶ現代社会』、どっちもすごくいい。

ものすごく視野が広くて、個別のトピックはやや粗いけど、その行間を埋めるのがいいトレーニングになりそう。来年のゼミの教科書、第一候補。

若い世代への戦争体験継承について、とにかくマイルドにして間口を広げる手法ってどれだけ意味があるんだろうと思う。
私は小学生のとき学校の体育館で『はだしのゲン』アニメの上映があり、半ば強制的に原爆を知った世代。言うまでもなく『はだしのゲン』は何一つマイルドじゃない。だからこそ強烈に印象に残った。その強烈さは、とても大切なことじゃないのかな。
「間口の広さ」というのは何も作品の性質だけに依存するものじゃなく、大人がそれを伝えようとするかどうかも大きい。なにせ私が小学生だった時代、『はだしのゲン』は間違いなく、読んだことのない人がいないくらい広く読まれている書籍だったから。
「継承の困難さ」を産み出しているのは、強烈なものを強烈なまま伝えることを阻む人たちであって、強烈な作品そのものではないように思う。

「みんなでバルスと投稿しよう」の字幕と同じで、こうやって乗ってこられると、あっ、ちょっとそういうのは違うんですってなってしまう・・・。

@PepperAdelaide

まぁこれからの大半の日本人は、その先立つお金が出せなくなるので、そのような現代人の苦悩は味わわずに“済む”のかも知れませんが。

でも、一番の不幸は、「喪失を体験できない人は、絶対に、自分のものではない人や物やことを好きになったり、惚れたり憧れたり出来ない」と言うことなんですよね。「片思い」ができないんですよ。

相手がどうであれ、自分は誰かを(何かを)好きだと言う気持ちを体験できない。

「非モテ」だと騒いで女を迫害したがっている人たちはソレなんです。彼らは女性を自分から好きになれない。そして女性の側から自分のことを好きだと言ってこないことを恨んでいる。あれも欠乏(欲求不満)を体験できないからです。

でも、恋というのは、その自分の方の切なさや苦しさがあるから素晴らしいのであって、「自分は何とも思ってないけど、他人も羨むような美人が向こうから何人も寄ってくる」なんて、人間の情緒的な体験としては何の価値もないですからね。でも“モテ”を求めている人たちが欲しいのはそれだけなんですよね。

私はファンという言葉には「憧れ」のニュアンスがあったと思っているのですが「推し」というのは何も傷つく必要のない消費者の感覚だと思っています。

@PepperAdelaide

そういうこともあるのかも知れないとは(我と我が身をかえりみて)思いますが、精神分析って基本的にうんと小さな頃にその人間の心の大枠が出来上がるという前提でものを考えるので、やはりエディプス・コンプレックスとかの話になるんですよね。

ここで言う社会性みたいなものは、「現実検討能力」みたいなこととも重なっていて、要は「自分の願望と、現実は残念ながら違うんだよ」ということを受け入れて認識する能力で、例えば今の自民党のオッサンたちは、そこの部分が怪しいというか、ヤバそうな人たち、多いじゃないですか。ああいう人格はかなり幼少期の精神発達の問題と見るんです。

でも、幼児期にちゃんとクリア出来なくても、その子の人生でちゃんと悔しい思いや悲しい思いを体験できる機会があれば、成長の機会はあるかも知れないので、そこでなんでも手に入る夢の世界にずっといられる環境はヤバいかも知れませんよね。

私がいつも気になるのは、例えば生殖医療や美容整形など、昔だったらどこかで仕方なしに諦め“られて”いたことが、お金さえ出せば、際限なく実現可能だったりするのは、幸せなことなのか、不幸なのか、悩ましいなぁ…と言うことですかね。

@zpitschi なるほど〜 今の世界はネットで何でも調べられるし、欲しいものは手元にすぐ届くし、自分が見たいと思う前に好みの動画が現れるし、そういう体験が日常になるということは社会性が育っていない人間が多くなるということも言えますかね?

消費社会の話で思うのは、「欲望」が満たされることが「幸せ」である(満たされないのは不幸である)という大前提で、普通私たちは現代社会を生きているけど、

精神分析は、むしろ「欲望」があるのにそれが「満たされない」ということの体験を促す。

プラスではなくマイナスの発想。

で、その最大のものがエディプス・コンプレックス。「お父さんを排除してお母さんを自分のものにして結ばれたい」という欲望をどこかで断念した時に、人は初めて社会性を身につけた人間になる…と。

欲しいと思ったら、それはその瞬間に満たされていなければならない(欠乏を体験することに耐えられない)という人は、皆さんが思っているよりも世の中には大勢いて、でももちろん欲しいと思った瞬間に満たされることは普通あり得ないので、どうするかというと満たされたという幻想の中に生きるか(でもことあるごとにそうではないという現実が垣間見えてしまうので、その時はそれを満たさない現実への激しい憤怒に変わる。例えば自分が好きなのに自分のことを好きではない女の子への怒りなど)、または「自分の中には欲望などない」という形で欲望と現実のギャップの体験(欲求不満)を回避する。

精神分析はその欲しいのに手に入らないというギャップの体験(喪の作業)ができるようにする営み。

「尊い犠牲の上に、平和な日本がある」って言葉、初めて聴いた日から今まで理解できたことがない。戦争を「した」人たちが思い描いた平和って天皇の世界征服だろ?

おれにとっての「めんどくさくなくて適度な食事」、オートミールからフルーツグラノーラになりつつある。めんどくさくなさが体感で二倍くらい違う。値段もその分高いけどな!

BTした辻真先氏のインタビューで「大人たちがスイッチを切り替えたみたいに言動を変えたのが嫌でね」というのは、作家の吉村昭氏も同じことを書いていた。

戦時中、世の中は浮き足立って、子供だった吉村氏自身は感覚も麻痺していたし、日本が負けるとは想像もしていなかったが、本当の驚きがやってきたのは終戦後、多くの人々が突然戦争批判をはじめたことだ、とエッセイにはあった。

長いけど一部を引用:

堰をきったように流れ出したそれらの発言に、私は息もつまるような驚きを感じて身を潜めた。私にとって、熱気の中にいたような戦時中に、それほど多くの戦争批判者がいたとは想像もできないことであった。と同時にかれらの論旨に従えば、戦争が罪悪であることも知らず勝利を信じて働きつづけた私は、戦争に積極的に協力した少年であったことになる。私は、自分が潜伏している犯罪者であるようなおびえにとらわれた。

しかし、年を経るにしたがって私はひそかにそれらの発言者に反撥をいだくようになった。おそらくかれらは、その言葉通り戦時中に戦争を批判しつづけたのかも知れないが、それらの発言は、終戦後からはじまっていることに致命的な弱さがある。かれらの最大の弱点は、終戦後という一事にかかっている。私はかれらの発言がかれら自身の保身のためによるものであると考えるようになっていた。

//中略//

私は、自然と牡蠣のような沈黙の中に身をひそめるようになった。そしてそれは、敗戦の日から二十年間つづいた。  

その間、私は、釈然としない思いで戦争のことばかり考えつづけていた。そしてその結果、少年であった私の眼にした戦争を、たとえ非難されることはあっても正直に述べねばならぬことに気づくようになった。戦争について沈黙をやぶることは、私にとって踏絵を眼の前にしたキリシタンと同じ勇気を必要とするように思われた。しかし、このまま口を閉じつづけることは、終戦後二十年間胸の中にわだかまった欝屈とした気分を、死ぬまで抱きつづけねばならぬことを意味している。それは、もはや私にとって堪えがたいことであった。

——『月夜の記憶』吉村昭、講談社文芸文庫

小学校の宿題で、戦争の話を大人に聞こうとしても、当たり障りのない話か、どこか後ろめたいような、奥歯に物の挟まったような印象の話しか聞き出せなかったことなどを思い出して、いろいろ考えてしまうところがある。

仕事はお盆のおかげでヒマなのだが暑さのせいなのか最近のアプデのせいなの業務用PCがやたら重くていらいらしてるなど、

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