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やっと100件終えたら「あと9万9,900件あります!」と言われた気持ち(さすがに読みきれない)

おにぎりと味噌汁へ急速に回帰している

著作権法における「思想又は感情」には意識(ごく一般的な意味において)も含まれるとする学説はあるんだろうか

・財務指標
・非財務指標
・財務非指標
・非財務非指標

縄文土偶(現物)は貨幣換算するといくらか、という思考実験をやってみたところ、「1万年待つ」というコストを負担できる人類は少なくともまだ地球にあらわれていなさそうだと分かりました

そこまで過敏なひとはどうやら少数派で、個人事業者も(いろいろな気持ちはあれど)そこそこの人数が 1.番号取得を進める 2.8割控除を求める 3.消費税を請求しない 4.取引をしない 5.迂回発注をする(n次請の口約束などで) 6.廃業する 7.何もしない といった選択肢をとるのかな……と思って調べたら、免税事業者はまだ15%ほどしか番号取得してないのではないかと簡易推計している方が。 https://itayama-syo-zeirishi.jp/invoice-register/#:~:text=%E5%9B%BD%E7%A8%8E%E5%BA%81%E3%81%AE%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%81%A8,%E7%B4%84316%E4%B8%87%E4%BB%B6%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 

※つづき

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インボイス制度の運用がこのまま進むと、(取引先の経理担当者以外に)本名と筆名が紐づけられるリスクをなるべく下げたいひとは、 1.別人を代表に立てて法人設立する 2.被雇用者となる 3.あきらめて登録する 4.改名する(本名を) 5.登録しない という選択肢になるのかな。 

※細かい話です

居場所支援、健康指導、生きがい創出

「この街でポケモンにいちばん詳しいの、じぶんだな…」と気づいてから、ポケモン図鑑をとうとう孫に託せるようになるまでの期間における、オーキド博士の心理状態に関する一考察

よくある請負型の業務委託契約で著作者人格権の不行使条項がふつうに入っていて、ライティング業務の発注にもそれを準用する法人は珍しくなくて、買い叩きといえばそうなのだけど、ちょっとしたお小遣い稼ぎしたいだけの書き手に氏名表示を求めるのは酷だしなぁと思う

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なんとなく読み返している本に、「奥付」というのは19世紀に幕府が本屋組合(出版カルテル)の権益を認める代わりに、公序良俗違反の刊行物を検挙しやすくするで、刊行年月日や著者名、発行者名に加えて印刷所名まで表示させるのは日本独特の風習だったとある

なんらかの社会的枠組みが与えられなければ(例:認定、表彰、評判、実績)、個人の語りが代表性〜代理性を持つとは見なされない。

だから当事者性を満たせなさそうな物語をつくり出したいとき、たいていの語り手は本人性〜私性に寄ったナラティブを選ぶほかない(たぶん)。その選択に強いられがあるかは大事だけど、別の話。

本人性を支える叙述というのは詐称や誇張に対して脆弱で、おまけにほとんどすべてのひとは無名〜匿名で語らざるを得ない。稀少でなければ有名人ではないから。

そうなると、自己紹介(や、それに代わる何らかの属性推定メカニズム。例えば「同じ村に住んでいる」「同じ言葉を話す」)が機能しづらい場では、おそらく、私性に頼ったナラティブを選ばないと、そのひとの語りは単独で通用しない。

結果としてインターネットには「お気持ち発言」が……とまでいうと飛躍しすぎか。まぁそんなような気持ちになりました。

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何かにつけて騒ぎになるところの、(任意の主体)は(特定の主題)を語ってよい/語るべきでないとする「お前が◯◯を語るな」問題について考えるとき、代表性>代理性>当事者性>本人性>私性といったグラデーションで考えるとどうなるか。

代表性〜代理性は、公序良俗に照らして否定されることがある。語る資格はしばしば有形/無形の認証に基づく(例:不動産の重要事項説明)。

当事者性は、該当する主体や主題についての広範な合意が成り立たないから、よく揉める。代理性と本人性との線引きは流動的だから、よく揉める。

本人性〜私性は、表現の自由(ひいては内心の自由)として誰もが否定されない。基本的人権であって許認可の問題にすべきでない。

なるべく自虐的にいうと、専門知識のある芸術分野で購買行動するときのじぶんは、「ちがいの分かる私」を維持するためにお金を払っているところは少なからずあるよね。だって駅前のコンビニおにぎりでお腹いっぱいにはなるんだもの、わざわざ高級すし店を探し歩かなくても。

さらにいうと、この消費行為は筋トレや語学に類するもので、外形的にはルッキズム(面喰い)として現れる、マッチョイズム(強くなりたさ)に見せかけた、ぼんやりとしたアンチエイジズム(老いたくなさ)に駆り立てられているのだろう。

お笑いがその典型だけど、その芸術に接したときにお客さんが得られるのは物品ではなく「たのしい時間」や「明るい気持ち」で、時には「知らなかったこと」も手に入る。類型的にはサービス業の報酬体系だといえる。「作ることの対価」も同じ仕組みで支払われる。だとすると、つき詰めると、「たのしい時間」が過ごせさえすれば、じつは「作者」も「作品」もいらなくて、あるいは「読者」すら不要なのかもしれない?

世代でもない古い喩えですが、「たとえば 君がいるだけで 心が強くなれる」としたら、「君」は作中話者にどんな価値(あるいは意味)をもたらしているのか

「なんだかすごいものを作ったひとの中から抽選で1名様に何十万円をプレゼント!」だとハイリスク労働っぽいけど、「私が感動したこれを作ったのはあなたですね。贈りものをさせてください」だと贈与っぽい気もする

役務提供の対価ではない賞金(お褒め)は、対象作に対して主たる受益者が社会権(とりわけ文化権)の行使を可能としたことに対する報酬と考えてしまっていいんだろうか。

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