何かにつけて騒ぎになるところの、(任意の主体)は(特定の主題)を語ってよい/語るべきでないとする「お前が◯◯を語るな」問題について考えるとき、代表性>代理性>当事者性>本人性>私性といったグラデーションで考えるとどうなるか。
代表性〜代理性は、公序良俗に照らして否定されることがある。語る資格はしばしば有形/無形の認証に基づく(例:不動産の重要事項説明)。
当事者性は、該当する主体や主題についての広範な合意が成り立たないから、よく揉める。代理性と本人性との線引きは流動的だから、よく揉める。
本人性〜私性は、表現の自由(ひいては内心の自由)として誰もが否定されない。基本的人権であって許認可の問題にすべきでない。
なんらかの社会的枠組みが与えられなければ(例:認定、表彰、評判、実績)、個人の語りが代表性〜代理性を持つとは見なされない。
だから当事者性を満たせなさそうな物語をつくり出したいとき、たいていの語り手は本人性〜私性に寄ったナラティブを選ぶほかない(たぶん)。その選択に強いられがあるかは大事だけど、別の話。
本人性を支える叙述というのは詐称や誇張に対して脆弱で、おまけにほとんどすべてのひとは無名〜匿名で語らざるを得ない。稀少でなければ有名人ではないから。
そうなると、自己紹介(や、それに代わる何らかの属性推定メカニズム。例えば「同じ村に住んでいる」「同じ言葉を話す」)が機能しづらい場では、おそらく、私性に頼ったナラティブを選ばないと、そのひとの語りは単独で通用しない。
結果としてインターネットには「お気持ち発言」が……とまでいうと飛躍しすぎか。まぁそんなような気持ちになりました。