冷え込んできてからこっちずっと落ち込んでいたのだけれど、意を決してストレッチとダンベルと散歩を行ったところめきめき気分が上がって、自我なんてものは薬までいかずとも血流や体温によってどうとでも左右されてしまうものなのだという気持ちを新たにした。
さっきまで簡単な梱包作業やメールの返信すら億劫で、もうなにもしたくない、なにも楽しくないし感じない、とにかく指を動かすのもだるい、などと思っていたのにこれらの停滞は自分の自由意志などですらなく、ただただ体が冷えていて凝り固まっていたからでしかなかったのである。
ここで不合理なのは、まず体を温めなくてはいけないからとかんたんな運動を行うという発想自体、表面上じしんの意思による決定がなされなければ実行されないということで、こちらの体は冷え切っているのだからもう動きたくなんかないわけだ。そしてこの動きたくないという意思もまた、体が冷えているから起こる。動けなさを解消するには体を動かす他なく、しかし体が冷え切っているから体の一部である脳も体を動かしたくないという意思を擬制するわけで、運動しなければ解決できない不調そのものが運動したくないという意思を連れてきてしまう、それを打破するためには運動しようという意思なしになかば強制するように体を動かさねばどうにもならない。
運動しようという意思なしになかば強制するように体を動かさねばどうにもならないわけだが、そんなふうに運動を習慣づけられているのならそもそも体は冷えない。
ぽかぽかしていれば気持ちも明るいからもっと体を動かそうと思う。そうやっていいときはどんどんポジティブなフィードバックループが成立するが、いきなり寒くなってしまうのだから不意打ちで落ち込んでしまうとかんたんなことでは立ち直れなおほど負の循環に陥ってしまう。
元気な時はそりゃ体を動かしていたほうが気分もいいなあこれからもそうしよう、そうしないのは愚かだと考えるかもしれないがそりゃ調子のいいやつの言い分で、こちらはすでに調子が悪いのだから、そこからの立ち直り方を知りたいわけだが落ち込んでいるときは立ち直りたいという意思すらも挫けているのだから知っていたところで実行できるわけではない。愚かだからではなく寒いからどうにもならなくなっている。暖かいところから知ったような口をきくなと言ってやりたくなる。