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名刺ってあったほうがいいのかなという気持ちがやってきた。

イベントの告知や自主制作本の営業のために意識的にSNSでむだなことを書くようにしているのだけど、言いっぱなしてタイムラインは見ないでいるとそこまでぐったりしなくていいな。無駄なこと書いてなんか効果があるかはさっぱりわからないけど。

ダサい話なんだけど、自分で本を作って出すようになってから、好きな本の話をするのが具体的な人間関係にもとづくものとして見られないかと不安で──つまり知り合いや友達の本を内輪で褒めて満足してるみたいに見られたらやだなという心配があった──、うまくできなくなっていたのだけど、ここにきてようやく「とはいえ自分は普通に無名だし、自認通りのただの読者という立場でいいと思ったものをいいってはしゃいでればいいんだよな」と思えるようになってきた。

じっさい狭い交友関係のなかできゃいきゃい自閉してると見られることはあるだろうけれど、もう仕方ないというか、いっそ内輪の外縁を広げるように誰でも招くようなパリピ精神でいたいような考え方になってきた。内輪かもだけど、参加したい人はみんなおいでよ、一緒にはしゃご〜、みたいな。僕はもっと友達を増やしてはしゃぎたいので気軽に話しかけてくれたら応えたいし、自分からも前のめりに人に会いに行こうと思う。

読みきれないというのは希望だな。世界がいつまでも自分のサイズに収まらないでいるというのはとても大事なことな気がする。

4月8日に登壇するイベントでおふたりとお話しするのが楽しみで仕方がなくて、イベント当日までに間に合いそうにない量の本を読み進めながらにこにこしてる。

本の話を存分にできるのは嬉しいなあ。

当日のお題に合わせて明治・大正期の文学や文壇について勉強しつつ、お気に入りのエッセイの再読や、未読だったものの発掘などを行なっていて「本ってなんて楽しいんだろう!」とうずうずする。はやくこの楽しさをお裾分けしたり、まだまだこんなのもあるよと教えてもらったりしたい。

peatix.com/event/3528150

書き出しから曖昧な「やさしさ」に決別が告げられるこの本では、他人との出会い損ねと出会い直しが何度も描かれる。抽象的な通念からくる「なんだこいつ」という反感が、時間の経過とともに具体が積み重なって「こうだったのかもしれない」に変わっていく。そのうえで語られる「人を信じよ」という言葉の重み。ふわっとした想像の圏域に留まり踏み込むことをしない「やさしさ」の外側に、ひとつの理屈ではとても割り切ることのできない多面的なひとりひとりの相貌が立ち現れてくる。この本の「信じよ」とは、目の前のその人とちゃんと関係せよという激励だ。

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青木さんとしゃべっていて欲しくなって、ウニタ書店で買った『送別の餃子』(井口淳子著、佐々木優画、灯光舎)。とてもいい本だ。小学生のころ『河童が覗いたインド』を夢中で読んだ、あの感覚を思い出している。造本の遊び心も、土地と個人とを描く目の塩梅も、手触りの凹凸がたのしくて、体温が感じられる。

練習や稽古は楽しい。そこには重さも深さもないから。でも多くの人はその奥行きのない単調さに耐えられないのかもしれなくて、ここに躓きがある。

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見たまま読んだままの軽さや浅さの次元を見過ごさないでいるのはすこし難しい。

作ったり考えたりするのが喜びでそれを継続していくために反応があったほうが便利なのであって、ただの手段に過ぎない反応を目的とするとだいたいおかしなことになる。

反応だけなら簡単で、たとえば誰かの足を踏めばいいだけなのだから、しぜん易きに流れて粗暴で下品なものが蔓延る。

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制作とか活動において、他人からの応答はおやつ。切実な必要はないけれど、あるとすごくいいもの。

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応答されることを目的にすると途端になんも続かなくなる。ポッドキャストも日記も、コツコツ続けていてもほとんど反応はない。それでも構わないから続いているのだけれど、返事があったほうが嬉しいに決まってる。

ここでいう「ダサい」というのは自身の有害さや加害性に無自覚なまま、視野狭窄な現状を無謬のものであるかのように思い込んだまま自足してしまっているような状態のことです。

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本は上手に読めば、自らのバカやクズに気づかされて慄いたり、あまりのバカさを恥じたり、見過ごしてきたクズに嫌悪を覚えて枕に顔を埋めて叫び出したくなったりする。

本を読むだけではいい人間にはなれない。いい人間でないことを痛感させられるだけなので、そこからは個々人の生活でやっていくほかない。

僕のような人は簡単に調子乗って勘違いするから、本をなるべくしっかり読んで、身の程を知り続けないとあっという間にダサくなる。それがいちばん怖い。

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本を読んでもバカはバカだし、クズはクズ。なんなら本によってはバカを甘やかしクズを増長させるものすらある。本は救いではないし、解決でもないし、武器でもない。

当たり前のことなのだが、本を買えば買うほど部屋が狭くなるのだけはほんとうになんとかしないといけない。この場合は本を読んでいる場合ではなく、片付けるべきだ。

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寡占という発想が馴染まず、分け合えば分け合うほど増えていくのが本。本は読めば読むほど読みたい本が増える。売れる本が増えれば増えるほどほかの本も売れる。本は一冊で独立できないので好むと好まざるとに関わらず人懐こさをもつ。まじめな読者はその無際限さを警戒し、友と敵とを明確に分けたくなるが、いい本は友と敵をパキッと分けられないことを前提としてとにかく関係の輪をどんどん広げる。そのうえでどう調整したものかと悩む。悩むからまた読む。本は散らかす。どんどん手を繋ぐ。ごちゃつく。なにかすっきり言い切れるような整理がなされる気になるようなとき、それは本が足りていない。わかりたいだけなら本は読まないほうがいい。わからないを広げるために読む。
本は買えば買うほど増える、これは当たり前。

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