言語や貨幣から、セルフレジやスマホアプリに至るまで、あらゆる道具には取り扱いのルールというか仕様があって、それらに準拠した使用をしないとうまく機能しない。
機能しなさにはグラデーションがあって、言語なんかは多くの人がめちゃくちゃな使い方をしてて、それでもなんとかなっちゃうことも少なくない。
デジタルツールはそういうめちゃくちゃな使い方はできなくて、「や、それは仕様にないので……」と突き返されるぶん、よりいっそう人間の側が設計の仕様に合わせていくことになる。
すくなくとも90年代以降の生まれの僕のような個人は、こちらの生理でなくて道具に合わせるように、自分を規格に寄せていくというのがふつうで「自然」なことになってる。
こういう時代の感性は、要件定義の枠の内外を明確化し、規格に合わないものを外へと排除していくことに疑問を持ちにくいのかもしれない。じっさいインターネット上のコミュニティは簡単に排他的な閉鎖性を確保できたりもする。だからこそ、ここでなされるやり取りはどうしても「出ていけ」「追放しろ」に帰着しがちだ。
実生活における政治は、本来「開かれている」というか、「閉じこもれない」ことが前提のはずなので、追い出す/追い出される外なんてどこにもないのだけど。
日記を書くための助走としてとにかくなんでも公然と書き散らかすというのを前まではツイッターでやっていたのをマストドンでやると、何かが変わるでもなく文字数制限だけが140文字区切りから500文字超になった。短文にいちいち区切られることで考えが前に前に進んでいく感覚というのは確かにあったが、あんまり字数の制限を意識せずにだらだら書けるというのはいいもので、だったらメモにでも書いていればいいものをわざわざ公開するのは、読まれるかもという意識が最低限の体裁を整える気にさせるからで、じっさいに読まれるかどうかはあんまり関係ない。相手にされようがされまいがてきとうに書いて広げて散らかしていくのが楽しい。
とにかく気になったらすぐ取り寄せて、図書館で上限ギリギリまで借りて、別の人の予約が入って延長もできないまま返却期限が近くなってきたやつから読んでいくというのは、こちらの気分と関係なしに読む本を選ばされてしまうところがとてもよくて、いまこれを読む感じでもないんだよな、という一冊が偏って凝りがちな読書の気分をいい感じに撹乱してくれる。
2/23(木・祝)12-14時「ゾンビと学ぶサバイバル! 死んでも生きるぞ、えいえいおー」@本屋lighthouse
みんなでわいわいクソッタレな世でどうにかごきげんであることを諦めずにやってく方法を模索する会です。来てね〜
予約など詳細はリンクからどうぞ!
https://books-lighthouse.com/portfolio/vsfuckinworldwithzonbi/
ソローキンを読みながら歯医者に行った日記です。
https://akamimi.shop/?p=2545
もう半袖でもいいじゃん。なんなの。
2月23日(木・祝)12〜14時、幕張の本屋lighthouse にて、店主の関口さん、参加者の皆様と一緒に「この世ってどうしてこうなの……?」と頭を抱えるイベントをします。お悩み相談、ではなく、お悩み共有。解決策はないかもだけど、とりあえず楽しくわいわいお喋りしましょう。
僕は好きなゾンビ映画やイベント連動のブックフェアの選書を読み解きながら、割きれない諸問題にどう対処するべきかヒントを探ってみるつもりです。気力体力が間に合えば資料を作っていきたい……
なんだか主語がデカめですが、関口さんとへらへら「困ったね〜」と現在地を共有し合う気楽な会です。客席からの発言大歓迎、もちろん聴くだけでも大丈夫。よろしければどうぞ〜
https://books-lighthouse.com/portfolio/vsfuckinworldwithzonbi/
マジョリティが満員電車や行列に悩まされているということは、マイノリティは空いてて快適、ということを意味しない。マイノリティには、並びさえすればアクセスできるというわかりやすさや確かさ自体がないのだから。
そのくらい少し考えればわかることではあるのだが、ほとんど進まない行列にじりじり並んでいると、この「並ばされていること」がなによりも不当で不遇なことなのだという気持ちになってくるのもわからなくはない。
自分が感じている不満を世界でいちばんの問題だと感じてしまうのはある程度人間の愛嬌ではある。でも、自分とは重ならない困難をもつ他人を、自分は持っていない困難のことを考慮に入れずに「自分がしているような苦労をしていなくてずるい」と感じるのはだいぶちがう。
僕はある2.5次元舞台が好きで、奥さんと一緒に劇場に観にいくことも多い。
そのたびにトイレで困る。客層のほとんどが女性だから、男子トイレの大半は女性用として振り分け直されていて、広い会場内のはしっこにひとつしか使えなくなっていたりする。女性用はそれでも足りていないくらいで、いつも行列ができている。
このような劇場では、僕のような男性客のほうが少数派である。そうすると逆説的にふだん自分が多数派であることがよく見えてくる。劇場のトイレの例をとってみても、マジョリティとは混雑してるということなのだと思う。
混雑はひとを削る。余裕がなくなる。
男性用トイレはたしかにガラガラなのだがとにかくどこにあるかかなり分かりにくい。僕はトイレの場所を見つけ出すのに随分苦労するし、女性客の列を掻き分けていくのはかなり居心地が悪い。なんで男がいるんだとは思われないにしても、どうせただの連れでしょ、という目線を感じたりもする。
マジョリティ側からの抑圧的な言説の根拠というか根っこにある心理というのは、「こっちは混雑に耐えてるのに、あいつだけ順番待ちしないで済むのはずるい」みたいなことなのかもしれない。
かきないしょうご。会社員。文筆。■著書『プルーストを読む生活』(H.A.B) 『雑談・オブ・ザ・デッド』(ZINE)等■寄稿『文學界』他 ■Podcast「 ポイエティークRADIO 」毎週月曜配信中。 ■最高のアイコンは箕輪麻紀子さん作