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文字は他者なので、それに性格を乗っ取られて生身や素顔の呑気さやごきげんさを損ねてはいけない。

文字にというか、短文を自らのアバターのように扱うような運用の仕方に。

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週一でお店番するみたいなことへの欲望がある。飲み屋でも本屋でもいい。ぼへーと誰でもない誰かを待ちたいし、生身を晒し合いながら雑談したい。

動いていないと健康でないな。動物だし。

一昨年の日記を読み返していて、この三年くらいの停滞と疲弊をまざまざと突きつけられる気持ち。

いつかの日記。

「寒くて動きが緩慢。思考も行為も緩慢。日記を書いていて思うのは思考というものに完全な独立などありえなくて、この体にずいぶん規定され方向づけられているということ。個々人の体を捨象したかのような言説がありふれているけれど、そういうどこにもありえない視点から冷笑するような態度は、日に日にダサくなってきているように感じる。僕が十代前半の頃は斜に構えて傍観者を気取ることが格好良いような風潮があったけれど、いまやそういう振る舞いはすっかり「おじさん」のものになってしまったな、と思う。自らの無謬性を疑わず、遠くから人を判断したり揶揄したりする態度。取り残されたものが暗いところから他人の足を引っ張るような屈託。そういうの、僕はもういいな。僕はこの体の唯一性を引き受け、いくつもいくつも間違いや矛盾を増やしていきながらも、素直に嬉しいときに嬉しいといい、楽しいときに楽しいといい、好きだなと思うものを好きだといいながら過ごしていきたい。森高千里の「臭いものにはフタをしろ‼︎」を聴いている。

『City Lives』二話、擬似ドキュメンタリーの一人称的カメラから、ドラマの三人称的カメラへと移行させていく処理の仕方が丁寧だった。まず冒頭でこれまでの視点を担っていたスタッフの姿を映す。そこから段階的に挿入される三人称的カメラは徐々に対象との距離を離していき、中盤のロングショットでドキュメンタリーのカメラの不在を強調し、そこからは完全にドラマに切り替わる。

あらゆる断言は明示されない(知らんけど)に支えられている。

「知らんけど」と発話と発話主体のあいだにあるとされる蝶番を軽々と切断する態度。

「仕事」って誰かへの親切のことだから、なんかもう余裕がある人だけが仕事するみたいな世界になってくれよと思う。

生活の必要に追われて従事せざるをえない「労働」に毎日確実に尊厳を削り取られていく事態を「仕事だから」で見過ごす欺瞞、まじでムカつく。

「いいじゃん、減るもんじゃないし」と気前よく親切を振る舞うためには、親切に必要な力が取るに足らないものであると思える程度の余裕が不可欠。

多くの人が疲れてて、お金もなくて、余裕が確実に削られていくと、どんどん目先の必要の比重が大きくなって、荒んでく。物心がついてからの20年間、そういう状況が進行していくのをずっと見せつけられてる気がしている。

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「誰からも大事にされてないなー」みたいな環境のなかでくたびれきって、体力や気力に余裕がないとき、他人へのちょっとした親切って明確に「減るもの」になる。たとえば電車の席を譲るとか、次の人のためにトイレットペーパーを替えておくとか、共用スペースの掃除とか、誰かのことを褒めるとか。
それらの行為が必要とする体力や気力ってほんのわずかなんだけれど、力の残高がジリ貧だとそのわずかすら勿体なく感じられて、使ったぶんだけ即時に見返りがあるような超短期的な利益に繋がる行為しかできなくなる。たとえば人を押し退けて席に座る、トイレットペーパーを使い尽くして放っておく、共用スペースを私物化する、誰かのことをやっかみ腐す。もちろんこれらの行為はほんの少し長い目で見れば自他ともにより貧しくなっていく悪手であるとわかりきっている。それでも、「いままさにゼロになりかけてる自分の気力体力をなんとか保ちたい」という切実な必要にとらえられているとき、ちょっとした親切すら「贅沢」になってしまう。

『コーポ・ア・コーポ』、最新話もものすごいな。

早起き予定の日は緊張して目覚ましの設定の一時間前にはバチッッと目が冴えてしまう。

他人の書いたものを右から左に横流ししてるだけで何が楽しいのか。

溺れないようにもがいてたら泳げるようになってた、みたいな生存者バイアスで、「やれる感」の格差を拡大再生産させるのをやめて、多くの人が「とりあえずやってみる感じでもいいんだ」と安心できて、やってるうちにできるようになり、結果「やれる感」を獲得できるようなお手伝いができたらいいね。

教える側も、教えられる側と同じくらい、自信も余裕もねえんだけどさ、より生きやすい場を開拓するための痩せ我慢は、たまたま生き延びてしまった側が引き受けるべき役割だと思ったほうがいい。

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僕はそのように仕事を覚えさせて欲しかったよ。やってもやんなくても「なんでだ!」と追求され、自分の「やれる感」がどんどん削られていくなか、それでもめげずにやり続けられる人だけが「やれる人」になってく仕組み、怖くて嫌じゃん。

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「なんでやらないんだ」とイラつくのもわかるけど、その憤りをそのままぶつけてしまうと相手は余計に「やはり自分にはできない」という確信を強めてしまう。

どうしたら「あ、自分やれるな〜」と思えるようになるか。やってみないとやれるようにならないのだから、やってみるしかなくて、「やれない」モードの人にはとにかく「やれるかやれないか分かんないよね〜、やれなくても全然構わないから、何回かやってみて欲しいし、やるをやってみることそのものがすでに一個の大成功!」ということを何度も伝え、じっさい失敗しても責められないのだと信用してもらえるよう工夫するほかないんじゃないだろうか。

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ひとに仕事を教えていると、どんな簡単なことであれ「自分にはできない」と思い込んでいると本当にできないというか、作業の手順を学習することを無意識に拒絶してしまうものだというのがよくわかる。

思慮深く自身の能力を低めに見積もるまじめな人よりも、根拠のない自信でなんでもやってみちゃう軽薄な人のほうがじっさいに仕事が「できて」しまう。

「できる/できない」という個々の能力差というのはそんなになくて、「やる/やれない」という自己への信頼だとか「やれる」という思い込みの量の差のほうが重要な気がするのだが、ここで気をつけなきゃいけないのは、問題が「やる/やれない」にあるとしても、個々人のやる気の問題として責任を個人にだけ求めるのは悪手だということだ。「やらない」のでなく、「やれない」と書いたのは、そもそも人が「自分はやれる」という屈託なく思い込めるかどうかは、本人の力ではどうしようもない、環境や運によって決まるものだからだ。

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