僕はある2.5次元舞台が好きで、奥さんと一緒に劇場に観にいくことも多い。
そのたびにトイレで困る。客層のほとんどが女性だから、男子トイレの大半は女性用として振り分け直されていて、広い会場内のはしっこにひとつしか使えなくなっていたりする。女性用はそれでも足りていないくらいで、いつも行列ができている。
このような劇場では、僕のような男性客のほうが少数派である。そうすると逆説的にふだん自分が多数派であることがよく見えてくる。劇場のトイレの例をとってみても、マジョリティとは混雑してるということなのだと思う。
混雑はひとを削る。余裕がなくなる。
男性用トイレはたしかにガラガラなのだがとにかくどこにあるかかなり分かりにくい。僕はトイレの場所を見つけ出すのに随分苦労するし、女性客の列を掻き分けていくのはかなり居心地が悪い。なんで男がいるんだとは思われないにしても、どうせただの連れでしょ、という目線を感じたりもする。
マジョリティ側からの抑圧的な言説の根拠というか根っこにある心理というのは、「こっちは混雑に耐えてるのに、あいつだけ順番待ちしないで済むのはずるい」みたいなことなのかもしれない。
マジョリティが満員電車や行列に悩まされているということは、マイノリティは空いてて快適、ということを意味しない。マイノリティには、並びさえすればアクセスできるというわかりやすさや確かさ自体がないのだから。
そのくらい少し考えればわかることではあるのだが、ほとんど進まない行列にじりじり並んでいると、この「並ばされていること」がなによりも不当で不遇なことなのだという気持ちになってくるのもわからなくはない。
自分が感じている不満を世界でいちばんの問題だと感じてしまうのはある程度人間の愛嬌ではある。でも、自分とは重ならない困難をもつ他人を、自分は持っていない困難のことを考慮に入れずに「自分がしているような苦労をしていなくてずるい」と感じるのはだいぶちがう。