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2/23(木・祝)12-14時「ゾンビと学ぶサバイバル! 死んでも生きるぞ、えいえいおー」@本屋lighthouse

みんなでわいわいクソッタレな世でどうにかごきげんであることを諦めずにやってく方法を模索する会です。来てね〜
予約など詳細はリンクからどうぞ!
books-lighthouse.com/portfolio

ソローキンを読みながら歯医者に行った日記です。
akamimi.shop/?p=2545

歯医者嫌いなのにちゃんと予約したけど嫌いだから行きたくなくてD.O とか聴いて気持ちをワルにしてる。

アプリをTootle からMetatext に変えてみた。みんな何を使ってるんだろう。

もう半袖でもいいじゃん。なんなの。

足立区生物園、温室のなかを無数の蝶が舞っていて楽園のようだった。

すっかり夜更かし癖がついてしまった。

2月23日(木・祝)12〜14時、幕張の本屋lighthouse にて、店主の関口さん、参加者の皆様と一緒に「この世ってどうしてこうなの……?」と頭を抱えるイベントをします。お悩み相談、ではなく、お悩み共有。解決策はないかもだけど、とりあえず楽しくわいわいお喋りしましょう。
僕は好きなゾンビ映画やイベント連動のブックフェアの選書を読み解きながら、割きれない諸問題にどう対処するべきかヒントを探ってみるつもりです。気力体力が間に合えば資料を作っていきたい……
なんだか主語がデカめですが、関口さんとへらへら「困ったね〜」と現在地を共有し合う気楽な会です。客席からの発言大歓迎、もちろん聴くだけでも大丈夫。よろしければどうぞ〜
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いくつになってもsyrup 16gの「不眠症」みたいな気分がある。

マジョリティが満員電車や行列に悩まされているということは、マイノリティは空いてて快適、ということを意味しない。マイノリティには、並びさえすればアクセスできるというわかりやすさや確かさ自体がないのだから。

そのくらい少し考えればわかることではあるのだが、ほとんど進まない行列にじりじり並んでいると、この「並ばされていること」がなによりも不当で不遇なことなのだという気持ちになってくるのもわからなくはない。

自分が感じている不満を世界でいちばんの問題だと感じてしまうのはある程度人間の愛嬌ではある。でも、自分とは重ならない困難をもつ他人を、自分は持っていない困難のことを考慮に入れずに「自分がしているような苦労をしていなくてずるい」と感じるのはだいぶちがう。

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僕はある2.5次元舞台が好きで、奥さんと一緒に劇場に観にいくことも多い。

そのたびにトイレで困る。客層のほとんどが女性だから、男子トイレの大半は女性用として振り分け直されていて、広い会場内のはしっこにひとつしか使えなくなっていたりする。女性用はそれでも足りていないくらいで、いつも行列ができている。

このような劇場では、僕のような男性客のほうが少数派である。そうすると逆説的にふだん自分が多数派であることがよく見えてくる。劇場のトイレの例をとってみても、マジョリティとは混雑してるということなのだと思う。

混雑はひとを削る。余裕がなくなる。

男性用トイレはたしかにガラガラなのだがとにかくどこにあるかかなり分かりにくい。僕はトイレの場所を見つけ出すのに随分苦労するし、女性客の列を掻き分けていくのはかなり居心地が悪い。なんで男がいるんだとは思われないにしても、どうせただの連れでしょ、という目線を感じたりもする。

マジョリティ側からの抑圧的な言説の根拠というか根っこにある心理というのは、「こっちは混雑に耐えてるのに、あいつだけ順番待ちしないで済むのはずるい」みたいなことなのかもしれない。

文字は他者なので、それに性格を乗っ取られて生身や素顔の呑気さやごきげんさを損ねてはいけない。

文字にというか、短文を自らのアバターのように扱うような運用の仕方に。

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週一でお店番するみたいなことへの欲望がある。飲み屋でも本屋でもいい。ぼへーと誰でもない誰かを待ちたいし、生身を晒し合いながら雑談したい。

動いていないと健康でないな。動物だし。

一昨年の日記を読み返していて、この三年くらいの停滞と疲弊をまざまざと突きつけられる気持ち。

いつかの日記。

「寒くて動きが緩慢。思考も行為も緩慢。日記を書いていて思うのは思考というものに完全な独立などありえなくて、この体にずいぶん規定され方向づけられているということ。個々人の体を捨象したかのような言説がありふれているけれど、そういうどこにもありえない視点から冷笑するような態度は、日に日にダサくなってきているように感じる。僕が十代前半の頃は斜に構えて傍観者を気取ることが格好良いような風潮があったけれど、いまやそういう振る舞いはすっかり「おじさん」のものになってしまったな、と思う。自らの無謬性を疑わず、遠くから人を判断したり揶揄したりする態度。取り残されたものが暗いところから他人の足を引っ張るような屈託。そういうの、僕はもういいな。僕はこの体の唯一性を引き受け、いくつもいくつも間違いや矛盾を増やしていきながらも、素直に嬉しいときに嬉しいといい、楽しいときに楽しいといい、好きだなと思うものを好きだといいながら過ごしていきたい。森高千里の「臭いものにはフタをしろ‼︎」を聴いている。

『City Lives』二話、擬似ドキュメンタリーの一人称的カメラから、ドラマの三人称的カメラへと移行させていく処理の仕方が丁寧だった。まず冒頭でこれまでの視点を担っていたスタッフの姿を映す。そこから段階的に挿入される三人称的カメラは徐々に対象との距離を離していき、中盤のロングショットでドキュメンタリーのカメラの不在を強調し、そこからは完全にドラマに切り替わる。

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