三木那由他『グライス 理性の哲学』(勁草書房)、読了。
「会話的推意」という面白そうな概念に惹かれて2年前に読み始め挫折してから、ずっと心残りだった本。
後半はやはり難しかった。グライスは、人間の理性(カント的な硬いものではなく、「人のあり方の合理性」みたいなもの)を出発点に、人間がどう考えたりコミュニケーションしたりするのかを解読しようとした、ということなのか。
難解な哲学用語を使わずに、例えば会話で起きている「言葉以上の何か」を説明したり、人が理由に基づいて行動したり考えたりするのはなぜかを考える。回りくどいとも言えるし、レンガを積むように丁寧に考えている、とも言えるんだが、これに付いていく知的気力が自分にはない。
本書で何度も使われる「理性」が、とても身近なものに思えるのは、グライスや著者が考えようとしていることが日常と地続きだからだと思う。だから読んでみたくなるんだけど。
INOUE, Mizuki 井上瑞貴 「Crown shyness」 at STUDIO@jia jia house
木の小部屋に置かれた「繋がり」の絵、家主の本棚に対峙する、緑に閉じ込められた映像(三宅唱《無言日記』を思いだす)。個展タイトル「Crown shyness」がとてもいい。お腹いっぱいになれるよ。
小部屋の真ん中に座ったら、切り取られた壁を通して2/3しか観られない、作家のご家族の映像。作家の仕事場の真ん中に据えられたディスプレイ。
窓から覗くくまモン(作家は熊本ご出身)。
《Perfect Family》というタイトルの絵が、会場の玄関に貼られていた台湾旧正月の組合字を想起させる。
これまで観たこの人の展示で、一番のインパクトだったと思います。
ブログ記事を書きました。
これまでトランスジェンダーの説明のために使われてきた「心の性」と「身体の性」という概念の組み合わせを、もうやめにしようという記事です。
たとえばトランスジェンダーの男性について、「身体は女性で心は男性」…そんな説明を聞いたことはないでしょうか。しかしそのような語り方では、現実のトランス男性たちの多様性は絶対に見えてきません。これは、トランス女性もノンバイナリーも同じです。
必要なのは、現在の社会における性別の「多元性」を捉えること、そしてその「多元性」に基づく「多様性」を捉えることです。そして、そうした目的にとって、「心の性」と「身体の性」という言葉の組み合わせは、もう役に立たないのです。
https://yutorispace.hatenablog.com/entry/2024/03/20/002301
ほに『このゆるい歯茎は私のせいじゃない』(13番館)を、分倍河原一箱古本市にて。
日記とは「他人に読ませるための私の生活」なので、作家の日記とかでない限り読みたいと思うことは滅多にないが、この日記の「書かれている私」への距離感が、読み進めることを促してくれる。
著者の、眠りたいと眠れないに挟まれた日常。長さには恐ろしくバラつきがあるが1日の欠もなく書かれた、どうしようもできないことが、外国語にすぐ翻訳できそうな明晰な文体で書かれている。なんとも言えない読後感。
横浜に佐貫絢郁を観に行ってたのか。あれはめっちゃ良かった。
この画像の夢の描写とかすごない? 詩を読んでるみたい。
続きをはやく読みたいです。
清原惟『すべての夜を思いだす』 at ユーロスペース
Yui Kiyohara ‘Remembering Every Night’
素晴らしかったよ。冒頭の「動くモノたち」固定カメラ連打からのジョンのサンのシーンで、俺は勝利を確信したぞ。早苗の視線をモニターへの視線で受ける彼氏のショットとか死にそう。
異和を体現するような兵藤久美さんの演技が面白かった。敢えて(だと思う)抑制的にしていない演技が、それは振る舞いだけじゃなく表情や話し方も含めてだけど、この素晴らしい映像に距離を感じることを促してくれているような気がした。
以下ネタバレ→
「地元の記憶」とリサーチで思い出すのは、たかはしそうた『移動する記憶装置展』。過去に接続したまま歩き回る廣田朋菜は、さしずめ検診員の大場みなみか。
カメラ飯岡幸子、照明秋山恵二郎、音響黄永昌の質の高い仕事をビシビシと感じる。鳥の鳴き声や花火の光線の処理とか、もうバス・ドゥヴォスじゃないか。
丁寧な映像(音も含めて)が随所で冴える。車→電車→人→おばちゃんと、画面の中をゆっくり動くロングの連打、からの、ミュージシャンたちを緩やかに舐める移動長回しのつなぎ。ラストカットの小さい点滅(これはマ ジ で すごい)。知珠が登りながら手を交差させる階段の手すり。→
バス・ドゥヴォス『Here』。早くも今年の俺の本命候補。
最後30分の男と女のシーンの素晴らしさ。
2人で歩くシーンも、キャメラ位置がシーンによって前から、後ろから、横からと変わる。予期せぬフレームインとフレームアウトで一人になったり二人になったり。
おそらく、2人で並んで歩くカットは一つもなかったんじゃないかな。この2人は手も触れない。
不意に立ち止まり、木の根元をルーペで覗き込んでいるシュシュに、後からきたシュテファンが彼女の後ろから覗き込もうとして「近すぎ」と嗜められるシーンのおかしさ。
最後に、彼が彼女に手を貸して2人が立ち上がり、2人の足だけのカットでドキドキしていると、「聞いて」というシュシュの声から街灯に雨が降り出すカットに移る。すごくいい。この2人、本当に名前も聞いてないのか?
雨の夜の中華レストランで、シュシュがこちらを向き、シュテファンが背中を向け、奥のおばさんが横顔を見せているカットや、兄と姉が話す夜のレストランで、窓越しのネオンが矢印のようにシュテファンに向いているカット。音の設計度の高さもそうだけど、すごく計算された16ミリ撮影にも驚かされる。他の作品も是非上映されてほしい。
『豊嶋康子 発生法──天地左右の裏表』 at 東京都現代美術館
‘Yasuko Toyoshima: Origination Method’ at Museum of Contemporary Art Tokyo
2回目。この人の展示ほど、"横から観たくなる" ものはない。「覗き見」なのよ。
作家の中学の時の通知表を観ながら。
虫歯の数まで書いてあるのかとか、懸垂がずば抜けて凄かったんだなとか、担任の中に神経質なのがおったなあとか。
手紙の宛名の切り抜きの展示で。
豊嶋さんの「シマ」の字は山編に鳥だけど、山編に島とか山編無しの島とか書いてくるのが2割くらいいる。驚くのは、賞状の宛名で「島」になってるのがいくつかあること。公的機関がそれでいいのかとか、誰も拘らなかったからなのかとか。
俺はいったい何をしてるんだろう、とか。
木で作った作品も勿論面白いんだが、後半のシリーズも豊嶋康子なんだなあと。
「覗き」をいくつものやり方で、かつそれとは直ぐに分からない仕方で、観客の行動と内面に呼び起こす。都現美の観せ方はなかなか面白かった。社会的批判だけの作家じゃないと思う。
バス・ドゥヴォス『ゴースト・トロピック』2回目をル・シネマで。以下ネタバレ。
(長い感想はthreadsに書いていたのだがこっちのほうが枠大きいのでこちらで)
次から次へと「とり残される (left alone)」映画。レフト・アローンてどこかで聞いたような略
主人公は終着駅にとり残され、バスの中でもとり残され、彼女のコーヒーカップは会議室に、ティーカップはドラッグストアに、犬は路上に残される。彼女がやっと車に乗れたと思ったら今度は娘に「とり残される」。娘はボーイフレンドに取り残され、ラストは砂浜で友達からとり残された娘の強い横顔のカットで〆。
最初と最後の、部屋の中をタイムラプスで撮影したカットも、住人に「とり残された」部屋だし。
「そこにはもういない誰か・何か」の痕跡を、16ミリの画像とエモい劇伴(このギターがまたえげつない)で抉り込んでくるそのパワーはすごい。主人公が車に拾われたシーンの次の、ヘッドライトの群れがホタルのように移ろうカットをはじめ、不在の部屋で「しーっ」ってやる若者、路上に佇む犬、ガソリンスタンドのライトの下に立つ主人公、印象的なカットがこれでもかと。
個人的には『Here』の方が好きだけど、残り2作も早く公開してほしい。絶対この監督はただもんじゃないと思う。
ブログ書きましたー「2023年の振り返り」
https://yutorispace.hatenablog.com/entry/2023/12/31/013130
追記:
さっき確認したら、ファンダムでは今この「怪しくて胡散臭いステレオタイプ中国人キャラ」は「インチキチャイナ」と呼ばれてることを知った。
ステレオタイプ表象は、その社会に存在する偏見と差別の写し鏡だ。
みんなが大好きな「怪しくて胡散臭い中国人キャラ」つまり「インチキチャイナ」は、要するに中国人がこの国で「信用に足らない紛い物」扱いされていることの一例だ。
私たち中国人/中国系が「ニーハオ〜ワタシ怪しくないアル〜(怪しい)」のイメージを背負わされ、私たちのアイデンティティが「インチキ」に接続されていることが、これがどれほど困難で屈辱的な被害にあふれた現実なのかを、どうか一度想像してみてほしい。
日本人が作り、日本人が楽しみ、日本人が広めて、日本人が茶化してきた「中国人キャラ」のツケを、私たち中国人/中国系は背負わされている。
話せば「怪しい」、仕事すれば「守銭奴」、食事すれば「悪食」、仲良くすれば「裏切りそう」、存在は「インチキ」、このイメージの影響を受ける(受けている)のは中国人/中国系だ。
この「インチキチャイナ」という言葉も、楽しむ日本人が多くいるほど、近いうちに現実の私たちに投げつけられる言葉になる。
繰り返しになるが、もう「怪しい中国人」キャラを再生産するのはやめてほしい……。
中国人/中国語話者が「怪しく胡散臭い」者として、「腹黒」で「二枚舌」の「守銭奴」かつ「裏切り者」としてメディアで描かれるのは、何度も言うが別に最近始まったことではない。『フラガリアメモリーズ』も『呪術廻戦』も『吸血鬼すぐ死ぬ』も『黒執事』も『ヘタリア』も『銀魂』も、登場する中国人表象キャラに何一つ目新しいものはない。擦られまくったステレオタイプの再生産が今でも通用し、それが市場で許される、あるいは支持されているだけである。私が産まれる前から、戦前から、日本の中国人表象はそうだったのだ。
華語圏への蔑視があり、ステレオタイプが作られ、それが100年以上変化しながらも維持され続け今もこうしてメディアで再生産されているだけだ。今も中国人キャラ/中国語話者キャラの大半は「怪しく胡散臭い」か、そうでなければコメディリリーフとしての常識の通用しない「トンチキ」に二分される。
もういい加減、やめてほしい。中国人/中国語話者という特定の属性に対して「怪しく胡散臭い」イメージを撒き散らし続けることを、やめてほしい。
私たち中国人/華人/華裔は日本ではマイノリティなので、そしてもうステレオタイプが当たり前になりすぎていて当事者でさえ諦めている人も多いので、マジョリティこそが「もうやめない?」と言ってほしい。 3/3
中国人キャラは「怪しく胡散臭い」という人間性のステレオタイプに加えて、外見にもステレオタイプが付与されている場合も多い。
糸目(眯眯眼という侮華表象の名残という説も)、弁髪(または三つ編みや一部長い髪の一つ結び)、改造チャイナ服(中華テイストを感じられるキャラ付けのための服装)、ギザギザの歯(悪食ステレオタイプから来る表象)などの有徴化が、特に散見される例だ。
また、いまだに協和語(日本が実質的に植民地支配した中国は満州で同化政策の一環として作り広めようとした簡易な日本語)を基にしたインチキ訛りの「〜アルよ」や、片言を匂わすカタカナの「ワタシ」「〜ネ」の使用など、発話においてもステレオタイプが確立して長い。
最近だと人気漫画『呪術廻戦』においても、中国人/中国語話者を表象したキャラが「悪」と結び付けられるエピソードがあった (私は『呪術廻戦』の読者ではないが、友人から知らされて該当回を確認している)。日本国内でテロを起こすことを目的とする敵役(悪役?)がおり、テロ始動に向けた密約会議においてその敵役が中国語を話していたことが話題になっていた。
このように、「裏切り者/テロリスト = 中国人/中国語話者」と人気作に表象されることも、もう慣れてしまった。2/3
三木先生のコメントに出てきたグレアム・プリースト、どっかで聞いた名前だと思ったら、NTTが作ったこれか。。。
https://k-philo.org/
最近、分析哲学の本を読んでいて、世界がなんでこんなにフラットだと思えるんだろうと思うことがある。自分の直感を無反省に使いがちというか。
田島正樹さんが以前、分析哲学(言語哲学だったかも)自身の道具もそれ自体分析されるべきだ、的なことを言っていた記憶がある。自分の立ってる場所に無自覚な思考はヤバい。
この記事をちょくちょく見かけるので読んでみた。
「死の腐臭」は、外からは甘く匂うんだろうなと思う。
今の東京を成立させているいくつもの危うい条件がいつまで保つか。パリ? 比べる相手が悪かろう。
ノア・スミス「東京は新しいパリだ」(2023年7月17日)|経済学101
https://note.com/econ101_/n/nc0b8535512ac
人生丸ゴト握ッテ回ス 裸足で行かざるを得ない