動的とは何だろう。アーテリスにおける人や竜の歴史を思う時、そこには常に苦闘がある。世界を分断したヴェーネス、竜星を離れたミドガルズオルム、長い殺し合いの果てに武器を収めたイシュガルドの人々と竜達と……。
彼が思う「動」とは、「生」とは、きっとそれらの歴史を作ってきた一人ひとりの苦闘を指すのだろう。不完全な試行錯誤によって、行きつ戻りつしながら人生を重ねていくこと。
静穏とは彼にとってきっと、苦闘や試行錯誤の否定なのだ。
邪竜の影に堕す直前、エスティニアンはこんなことを言っていた。
「あとは、こいつを雲海深くに投げ入れれば、俺の使命もそれで……」
そしてその直後ニーズヘッグはこう言った。
「ついに貴様は願ったな、蒼の竜騎士よ! すべての荷をおろしたいと! 安らぎが欲しいと!!」
エスティニアンは今も、何かしらの使命を抱えて生きているのかもしれない。そんな風に思う。それは人と竜との仲立ちをするとか、死んだ双方のために生きるとか、そういうことなのだろうと想像される。
その意味で、彼は今も「荷をおろし」てはいないのだ。彼には担うべきものがあり、苦闘してしかるべき道の只中にいる。それが生だ、と彼は思っている。
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こちらのページを読んでいた。
最終幻想レムナントで、メーティオンが「知恵を磨き、争いを絶やした星もあった……」と言った時、エスティニアンが「なんだここは… 生きた心地がしないぞ」と言うのは知っていたのだけれど、他のキャラクターのセリフと見比べてみて、改めて色々と考えてしまった。
他のキャラクターがこの世界について「美しい」「寂しい」「穏やか」といった感想を漏らしているのに対して、エスティニアンは明確に強い違和感を表明している。
このラーラーの世界は滅亡に近い静穏さに覆われている訳だから、彼が「生きた心地がしない」と言っているのはその穏やかさや静けさに対してなのだろう。彼にとってこうした静穏とは、例えば息苦しさに近いものなのかもしれない。この台詞からはそんなことを感じる。
エスティニアンがウルティマ・トゥーレに風をもたらしたことを思うと、彼の「生きた心地」、すなわち「生きるとはこういう感じ」という手応えというのは、きっと動的なものなのだろう。そんなことも想像される。
ゲオルギーネが真の意味で責任を担える範囲はどこからどこまでだったのだろう、と考える。自己は他者によって育てられざるをえない。では自己が自己を担うことはどこまで可能なのだろう。ゲオルギーネのどこまでが本人の担い得る自己で、どこからが担いきれない自己だったのだろう。
「ここから」「ここまで」という風に線を引くことは土台無理なのだけれど、それでも考えてしまう。ヴィルフリートについてもそうだ。彼は弟妹にとって迷惑な兄だし無神経な兄だが、では彼は自分が他者にとって無神経で迷惑な存在であることをどれくらい担えるのか。担えないのではないか。担えないという観点が読者には足りない、そしてフロレンツィアが「ヴィルフリートには(少なくともすぐには)担えないのだ」という認識に至るまでの年月が、この物語のほぼ全編を占めているのではないか。
ゲオルギーネにせよヴィルフリートにせよ、行いの報いは本人が受ける他にないのだけれど、ではその当の本人がかような人格であること、あるいはかような人格になったことの報いを本当に全て受けるのが正しいのか、と考えてみた時、やはりそれには無理があるのではないか、と思ってしまう。
その人がその人になったことの功罪は、その人自身にだけ起因するのではなく、やはり育てた人や育った環境にだって起因しているのではないかと思うからだ。
ゲオルギーネの人生に思いを馳せる度に「詰んでるなあ」という感想を抱くのだが、それは彼女の人生はこういう破滅を迎える以外、他に辿り着ける場所がなかったのではないかと感じるからだ。
彼女の行いについては彼女が報いを受けるしかない。彼女はそれを命で支払った。だがそれを命で支払ったところで……と思ってしまう。彼女をこのようにしたのはまず第一にヴェローニカであり、アーデルベルトであった筈だ。そのことを抜きにゲオルギーネ自身に全ての責任を帰し、命でそれを清算させたところで、何の意味があるのか。何の意味もない。彼女の生が虚無で塗りつぶされるだけだ、と感じる。
フロレンツィアがヴィルフリートについて、生育歴の影響の大きさを嘆いているシーンがどこかにあったけれど、その中身を分解するとこういうことなのかな、という風に思った。
ジルヴェスターの無神経さとヴィルフリートの無神経さは似ているという描写がちらほらあるが、ジルヴェスターもまた母親に甘やかされて育った人間で、幼い頃はわがまま放題なところがあった(西の離れで育ったヴィルフリートに比べると、周囲の目があったためにそこまでではなかったようだが)。彼もまた、「相手のために自分が損を甘受する」という経験をしてこなかった人で、そのために無神経になっている側面はあるだろう。
「甘やかされたから碌でもない人間になった」という言説は今一つ論理的でないなあと感じるので、なるべく具体的に「甘やかされる」ことと「碌でもない人間」の間の隙間を埋めてみようと思ったんだけど、結果的にヴィルフリートに足りないのは経験のバリエーションなのかなという風にも感じた。「甘やかす」ことの罪は、子供から多様な経験を奪うことなのだなあ、とも。
対人アンテナの感度の悪さは何に起因しているか。いくつかその根になりうるものはあるだろうが、シャルロッテやメルヒオールとの違いから想像するに、やはりヴェローニカに育てられたということは関係しているだろうと思う。
どう育てられたら対人アンテナの感度が悪くなるのかと考えると、幼い頃に自分が相手のために譲ったり諦めたりした経験がなかった、というようなことがあるのではないかと感じた。弟妹もいない、父母とも殆ど交流がない、という状態で、祖母や側近がわがまま放題を許していたら、他者のために諦める、我慢する、という経験はしようがない。
譲ったり諦めたりする経験が何故対人アンテナの感度に繋がるかと思ったかといえば、「こういうことを言うと相手に我慢を強いるのでは?」とか「こういうふうにすればお互いに我慢せずに済むのでは?」とかいう考えが育たないから。相手に譲らせたり、諦めさせたりするのは相手の損な訳だが、それを理解するには自分が「損をした」という経験が必要になる。自分が損をした経験がない、もしくは少ないのに、相手の損を想像できるようになれというのは無理筋だ。
ハン5の1巻の特典SSを読んでヴィルフリートの内面について色々と考えていた。
彼の素直さは美点であると同時に、彼の思考の浅さや独善性の根にもなっている。この短編でそういう印象を私は抱いた。
ハン5本編では、この後ヴィルフリートはオルトヴィーンという「友人」を応援したい一心で「オルトヴィーンに全面的に協力する」と言ったがためにハンネローレに不信感を抱かせ、領地にもシャルロッテにも迷惑をかけることになる。
彼は彼なりに成長してはいるのだけれど、この素直さゆえの浅慮、あるいは浅慮ゆえの独善というのは余り直っていない。なかなか直せないものなのだろうとは直感できるのだけど、一体彼は何故そこを直せないのかについて言葉にしようとすると結構難しい。
彼の浅慮や独善性は、ローゼマイン視点だと他者への無神経さとか鈍感さとして描かれていることが多い。シャルロッテ視点だとこの「鈍感さ」が更に細かに書かれていて、ヴィルフリートが周囲の人々の動きを余りに一面的に、額面通りに捉える人間であることが描写されている。
要はヴィルフリートの持つ対人的なアンテナは感度が非常に悪い、ということなのだろう。
今回改めて読んでみると、フェルマイのお互いへの触れ方に愛情が籠もっていると感じることが多くて、その「触れ」の延長としてのセックスみたいな感じなんだなーと思った。特にマインからフェルディナンドに触れる時。
性的な欲望(この人に触れたい/触れられたい)を感じることと、相手を愛すること(信頼する、尊重するなど)とはどういう関係なのか?というのをもう少し掘り下げたかったな、とも思った。原作のフェルマイにあるのは後者で、後者の表現の中には身体的な触れ合いも含まれていて、私はこの愛していると相手に伝えるための身体的な接触の延長として、セックスを描こうとしていたのだと思う。
でもそれって全然欲望を経由していなくて、一体二人はどこで相手の身体に欲望するんだろう?というようなことを思わないではなかった。原作のフェ氏は髪や頬に触れる時、何となくそういう感情が混じってそうではあるけど。
コルレオとかはお互いのこと結構欲望してるんだなって東屋デートの短編を読んで思ったりもしたので、尚更なあ。
いっそ、マインはセックスを経験してから欲望するようになるという方向でも良いかもね。勿論欲望しなくても良いんだけど、そうするとセックスがつまらない時間になるとは思う。
『わたしのことり』久しぶりに読み直してて、割と良い本だなと思った。自分の同人誌を自分で読み直して「良い本だな」って思えることはあんまりないのですが、これは良い本。まあ読む人を選ぶけど……(そもそも成人向けだし)。
自分の出した同人誌で、今読み返しても「割と良い本では」と思えるものって多くなくて、そういう意味ではこれを書けて良かったなと思う。
最近平野啓一郎『空白を満たしなさい』を読んだんだけど、純文学的な手法で描かれるセックスの据わりの悪さを強く感じた。
『わたしのことり』を書いた直後は、R18二次創作同人誌における性描写は官能小説の流れを汲んでいて、性暴力や性交渉における男女の役割固定みたいなテーマを書く上でその手法を採用してしまって本当に良かったのか、みたいなことを考えていたんだけど、純文学におけるセックス描写を改めて読んでみて、うーんこっちはこっちでソレジャナイ感すごい、と思った。何か昔、花村萬月とか山田詠美を読んだ時も似たようなことを思ったような。
こういう言い方は無条件に成人向け二次創作やBL小説の肩を持つようでアレなんだけど、性交渉の表現として、実は二次創作やBLって結構頑張ってんじゃね?というようなことを思ったりした……。
二次創作の話をだらだら(ディッター次世代編)
クレセンシアは父親似、オルランドは半々、プルデンシアは母親似、のイメージ。
髪や目の色などの外見については余り考えていないのだけど、何となくオルランドだけはエーファやトゥーリに似た青緑っぽい髪のイメージ。コル兄だけが(誰の遺伝だ……?)とちょっとだけ訝しむかもしれない。周囲はコル兄とかエク兄に似てるからそっちの遺伝か〜って勝手に思ってるという。
クレセンシアの造形を色々と考えたのだけど、フェルディナンドに似た娘で筆頭側仕えがグレーティアだったら、基本的にクソ真面目で神経質な子になるでしょうそれは、と思ったのでそういう子にする予定。
グレーティアはベルトラム(と彼に接するローゼマイン)への態度を見ても基本的に悪い方悪い方に物事を考えるので、クレセンシアが迂闊なことをしたり言ったりするのを許さない教育係だと思う。フェルディナンドと重なるところの多い教育係というか。
ローゼマインは(グレーティアのお蔭ですごくしっかり者に育ったよね。後は自信さえ持てたら完璧じゃない?うちの娘も側近も最高!)って思ってる。で、その熱量をクレセンシアに向けるとお父さんそっくりの屁理屈を捏ねて照れ隠しをする。みたいなイメージです。
本好きグレーティアに関するえぐい話
グレーティアを買ったのはギーべ・ヴィルトル(シドニウス)だけど、側仕え見習いとして仕えた先はシドニウスの妻ではなく彼の息子フロイデンの妻、ベティーナだったんだよね。見習いとして勤めていたのはギーべの夏の館の離れ(おそらくそこにフロイデン・ベティーナ夫婦が住んでいたということだろう)だったとふぁんぶ8にも書いてある。
で、良く分からないというかグロテスクだなと思うのは、これってつまりシドニウスとフロイデン親子の間でグレーティアの扱いを相談したことがあるって話だよね。つまりシドニウスが元々自分専用の愛妾にしようとしていたならベティーナの側仕え見習いにはしないだろうし(自分の妻の側仕えにするだろう)、フロイデンが愛妾を求めていたのなら買い手はギーべ・ヴィルトルではなく彼になる筈だから。
仮にグレーティアを彼女の母親のような「家付きの客人接待用の女」にする予定があったのだとしても、父と息子が納得ずくで愛妾を共有しているのってどういう感覚なんだろうなと思う。気持ち悪いのは勿論そうなんだけど、結構地球人の感覚から遠いな、みたいな。
ヲタクの考えごととうめきです。二次創作の話などが出ます。