動的とは何だろう。アーテリスにおける人や竜の歴史を思う時、そこには常に苦闘がある。世界を分断したヴェーネス、竜星を離れたミドガルズオルム、長い殺し合いの果てに武器を収めたイシュガルドの人々と竜達と……。
彼が思う「動」とは、「生」とは、きっとそれらの歴史を作ってきた一人ひとりの苦闘を指すのだろう。不完全な試行錯誤によって、行きつ戻りつしながら人生を重ねていくこと。
静穏とは彼にとってきっと、苦闘や試行錯誤の否定なのだ。
邪竜の影に堕す直前、エスティニアンはこんなことを言っていた。
「あとは、こいつを雲海深くに投げ入れれば、俺の使命もそれで……」
そしてその直後ニーズヘッグはこう言った。
「ついに貴様は願ったな、蒼の竜騎士よ! すべての荷をおろしたいと! 安らぎが欲しいと!!」
エスティニアンは今も、何かしらの使命を抱えて生きているのかもしれない。そんな風に思う。それは人と竜との仲立ちをするとか、死んだ双方のために生きるとか、そういうことなのだろうと想像される。
その意味で、彼は今も「荷をおろし」てはいないのだ。彼には担うべきものがあり、苦闘してしかるべき道の只中にいる。それが生だ、と彼は思っている。
彼にとって静穏とは、それら背負うべき荷物、果たすべき使命、人生を歩んでいく上で必ず引き受けねばならない苦闘や試行錯誤、それら全てを放棄した先にある寂滅の安らぎでしかない。
生とは常に風の吹くところ、何もかもが一つところに留まらない、動的で移ろいゆくもののことなのだ。
だからラーラーの世界を訪れた時、彼は「生きた心地がしない」と言ったのだろう。