ヴリトラの言う「姉」という言葉は、人間の関係性で言うならアジュダヤは自分の姉、という意味だったと思う。こういう使い方の「姉」ってどうなんだよ、とちょっとスクエニに文句言いたい気持ちはありつつも、まあヴリトラが説明したいニュアンスは分からない訳ではない。幼い彼をこまやかにケアしてくれた存在なのだろう。
そのアジュダヤを、今度はヴリトラがケアする側になっている、というのが何となくよかったよね、と思う。
フェルディナンドが何故マインのことだけ信頼するかという問題、ユストクスやエックハルトは「平民出身だから」という答えを(確か第三部辺りで)弾き出したし、それはそれで間違ってはいないと思うけど、勿論それだけじゃなくて記憶を覗いて「マジで本のことしか考えてないぞコイツ」ってなったとか、孤児院の子供を救いたいと言っただとか、そこら辺の事情も合わさってマインを信じるようになったんだと思うんだけど、しかしそうだとするとフェルディナンドというひとはそもそも人を信じるために名捧げか記憶を覗くか、そこら辺のハードルを突破しないと駄目なわけで、まあそりゃあ他には信じられる人いないでしょうよ……って気持ちになってしまうのであった()
二次創作に必要な情報の整理
ロゼマ11歳(夏)
ナーエラッヒェ出産(秋)
ロゼマ貴族院2年生修了(ターニスベファレン)
領主会議でフェルディナンドの婿入り決定。アナスタージウスとエグランティーヌ星結び。
ロゼマ12歳(夏)
フェ、アーレンスバッハへ
ロゼマ貴族院3年生修了(ラッヒェ奉納式出席)
フロレンツィアの妊娠の情報共有
領主会議でジギとアドの星結び、エグランティーヌの妊娠発覚、ロゼマの王族入り決定
ロゼマ13歳(夏)
ラッヒェ子1歳、フロレンツィア・エグランティーヌ出産
ロゼマ貴族院4年生で急成長
フェルディナンドの救出、ランツェナーヴェ戦
領主会議でアレキサンドリア建領
ロゼマ14歳(夏)ハルクラ・コルレオ星結び?
ルッツ(・マイン)成人、「帰宅」
ナーエラッヒェ子2歳、ヘンリエッテ・ステファレーヌ1歳
ロゼマ貴族院5年生、レティ・ヒルデ1年生
領主会議
ロゼマ15歳(夏)
ラッヒェ子3歳、ヘンリエッテ・ステファレーヌ2歳
ロゼマ貴族院卒業、レティ・ヒルデ2年生、メルヒオール1年生
領主会議でフェルマイ星結び?
(ロゼマここから妊娠の可能性あり)
ラッヒェ子4歳、ヘンリエッテ・ステファレーヌ3歳
レティ・ヒルデ貴族院3年生、メルヒ2年生
(ロゼマここから出産の可能性あり)
領主会議
ラザファムから見たローゼマインってどんな感じなんだろうなあ。ローゼマインがこの発言をした時、ラザファムはおかしそうに笑っているんだけど、それは恐らく「迷惑をかけ通し」という言葉に、幼いローゼマインに振り回されながらも何だかんだ楽しそうだった(あるいは幸せそうだった)フェルディナンドのことを思い出したから、だよね。
ロゼマちゃんに振り回されている時は文句たらたらなのに、実際はフェルディナンドはそういう毎日を生きたがっていて、多分そのことをラザファムは知っているんだろうな、みたいな。
あるいは、フェルディナンドの命を救ったのは他ならぬローゼマインなのに、その彼女が「迷惑をかけ通し」なんて言うからおかしかったのかもしれないな。「迷惑をかけ通し」とローゼマインが思うのはフェルディナンドが気難しい人間だからで、そうやって気難しさを取り繕わずに出していける相手がローゼマインなのか、みたいなことを思ったかもしれない。
物語のクライマックスでは、ローゼマインは英知の女神メスティオノーラに身体を貸すことで魔力を染め替えられ、フェルディナンドと魔力的に同質ではなくなる。
作者によると仮に魔力的に同質のままだったら二人の間には魔力感知が発現しなかったというから、二人が完全な他者として向かい合い、またパートナーとして結びつくためには、魔力的に異質な存在になる過程が必要だったということになる。
心身共に二人が他者同士となるためには、離ればなれになったり、異なる魔力を得たりする必要があったということだ。そうでないとそれこそ、『嵐が丘』のキャサリンとヒースクリフのように悲しい結末を迎えざるを得ないということなのだろう。自分は自分自身とは結婚できない訳だから。
一方で、ローゼマインはフェルディナンドのドッペルゲンガーであるばかりではない。高い同一性を有する一方で、彼にとってかなり強烈な他性を持った存在でもある。
それは彼女が平民の生まれ育ちだからであり、同時に家族に深く愛し、愛されてきた存在だからだ。フェルディナンドは自分と同質な存在になることをローゼマインに求めたが、同時に彼がそのようにローゼマインに深く関わり、目を向け続けるのは、彼女の中に全くの他性、彼がとうてい得られるはずも成り代われるはずもない他性があるからなのだ。
物語の中盤、王命によって二人は離ればなれになる。違う環境に身を置かざるを得なくなった結果、ローゼマインはフェルディナンドの影響下から離れ、彼女自身の意志のもとに冒険し、危険に足を踏み入れながら大人になる。第五部とはそのように、ローゼマインがフェルディナンドのドッペルゲンガーの立場を降り、一人の人間「ローゼマイン」を確立する過程なのだと言えるように思う。そしてもちろん、一人の人間「ローゼマイン」は、フェルディナンドにとって一人の他者として彼の命を助けたのである。
ローゼマインのためを思っての行動も、どこか「自分が求めていたもの」を基準にしている節がある。洗礼式の時に実母がいればと思うからこそカルステッドとエルヴィーラにマインを預けたし、次期領主の婚約者になれば自分とは違って安定した立場を得ることができると思ったからヴィルフリートとの婚約を後押しした。
フェルディナンドは意識してローゼマインを「もう一人の自分」として育てた訳ではないが、自分を基準にしてローゼマインの身辺を整えたり、教育を施していったという意味で、ローゼマインはやはり「もう一人の、より恵まれた境遇のフェルディナンド」として育った側面がある。
このように、ローゼマインはフェルディナンドのドッペルゲンガー、あるいは非常に高い同一性を有した存在である、ということができる。
廣野由美子『謎解き「嵐が丘」』の中で、キャサリンとヒースクリフはドッペルゲンガーであり、だからこそ二人は物語の展開上結婚できない、というような解釈が提示されていたのだけど、これは結構『本好きの下剋上』におけるローゼマインとフェルディナンドにも援用できる考え方だなと思う。
どういうことかというと、まずローゼマイン(マイン)は第二部の時点でフェルディナンドの魔力に染まって二人は魔力的にほぼ同質の存在になっている。エアヴィルミーンが同一人物と間違えたり、同じ最高神の名前を授かったり、世界を創造した存在から同一存在と見做されかけるほど同質性が高い。
また別の側面でも、フェルディナンドとローゼマインは近似の存在と言える。フェルディナンドが保護者として貴族社会でローゼマインを育てていく上で、「自分のような存在」になるよう彼女に求めていた節があるからだ。
例えば貴族院で最優秀を取れというのは、彼がかつてそういう存在であることを周囲の大人から要求されたことの反復だし、領主一族としてアウブの補佐をする存在になれというのは、兄を助けられる存在でありたいという彼の切なる願いがローゼマインに投影されている証だということができる。
それにフェルディナンドにしてみれば、神々の力を枯渇させ、ローゼマインに人間の魔力を取り戻させるというあの一連の計画は、自分が名捧げをしていたから可能だった……という認識だろうと思う(それは第五部11のプロローグからも窺える)。
彼にとって名捧げは、彼自身が唯一諦めたくないと思った「ローゼマインの命」の最も近くにいられることを意味している。何があっても彼女に拒絶されないという証が名捧げなのではないだろうか。
だから彼が名を捧げたままでいたい、何ならローゼマインからも名を捧げてくれたら良いという旨を発言しているのは、お互いに何があっても拒絶しない、されない関係でいたい、その具体的な証が欲しい、そういう感情の発露なのだと思う。
ハン5の展開を見るに、ローゼマインが彼に名を捧げていなくて良かった、むしろ名を捧げていないことが彼を助けられる余地を生んでいるのだから、彼の認識は正直これはこれで非常なバイアスというか、彼の世界や他者への不信頼に基づいた考えだよなあ、なんて思うのだけれど、フェルディナンドがそれだけローゼマインに必死になっているのが、やはり愛おしいなあと思うのであった。
フェルディナンドは供給の間で倒れた時に自分の命を諦めた(彼自身の心理状態としては完全に諦めモードだった)のだけれど、ロゼマさんが名を奪って「生きて下さい」と命じたことで強制的に諦められない状態にさせられた。
そのことで彼は「諦めない」とはどのような感情なのか、どのように振る舞うことなのかを知った。だから最終巻のプロローグでは、今度は自分から自然な形で「ローゼマインの命を諦めない」と思えるようになる。それはローゼマインが死ねばユルゲンシュミット全体が滅びるという、究極の背水の陣を敷いた戦いでもあった。
彼がローゼマインに名を捧げたままでありたいと願うのは、名捧げこそがそうしたことの証だからではないか、と思う。ローゼマインが自分を諦めないでくれた証が名捧げであり、自分がローゼマインを諦めずに足掻けたことの証もまた名捧げである、という。
フェルディナンドの中では、この人の命を諦めない、絶対に助ける、という意志や感情が、きっと名捧げと強く結びついている。そしてその意志や感情こそが、彼の思う「愛情」の背骨でもあるのだと思う。
ニーズヘッグがエスティニアンの身体を乗っ取ったのは、ある意味では苦肉の策、逆襲の策だった。見方を変えれば、竜はそこまで追い詰められでもしないかぎり人間になろうと思わないのだろう。
そこにあるのは竜と人間の根源的な非対称性だ。人は竜を畏れ、憧れもするが、竜は人に対してそのようではない。竜は人より強い。少なくとも「蒼天のイシュガルド」における竜と人間の力関係はそのようなものだったと思う。
ニーズヘッグは限りなく弱められたからこそ、今まで考えもしなかった「人に接近する」ことを試みた。その結果邪竜の影が生まれ、エスティニアンはニーズヘッグの心を、もう一つの我が心のように理解することになった。
エスティニアンが竜血を浴びた人間であるというのは、単に彼が竜を屠った人間であるという意味に留まらない。彼が浴びた竜血とはニーズヘッグの血であり、それはその時の彼にとって仇の血だったのだが、その一方で彼や彼の属するイシュガルドの人々が、千年をかけて「接近」してきた存在の血でもあった。
そしてその「接近」の最後の一歩を、ニーズヘッグの方から詰めてきた。そこで人と竜とが重なり合って、邪竜の影が生まれた。
考えてみると、イシュガルドの竜騎士達が身にまとうドラケンメイルは、確か竜の血を塗ることによって強化されていた。
竜の血によってどのように強化されているのかと考える時、出てくる答えは一つだ。恐らく、竜の身体のように硬く丈夫になるのだろう。
トールダンと建国十二騎士を始祖とするイシュガルドの人々に、初めから竜に対する欺瞞が抱え込まれていたのと同じように、竜騎士という存在自体が実は矛盾を孕んだ存在なのではないか……とぼんやり考える。
龍を狩るための存在でありながら、竜と渡り合うために空を跳躍し、鎧に竜血を塗り、竜の眼の力を利用する。
それは人が竜に限りなく近づこうとする道程に見える。竜騎士とは竜を屠る者だった筈なのに、いつしか竜に近似した存在になっている。
「蒼天のイシュガルド」で描かれたエスティニアンの物語というのも、結局のところその究極形だ、と言えるだろう。
けれど彼の人生に不可思議な点が一つあるとしたら、彼が竜になったのではなく、竜が彼になったことだった。
思えば「ドラゴンになった少年」をはじめ、竜になった人間の話はFF14内にいくらでも出てくるけれど、人になった竜の話はたった一つしか出てこない。それこそが邪竜の影だ。
竜血は、イシュガルドの人間が摂取するとその身を竜に変える劇薬でもある。それはフレースヴェルグの言った通り、イシュガルドの人々がラタトスクの眼を食らったトールダンとその麾下の末裔だからだ。彼らの血に流れる竜の因子に竜血が反応して、竜に変貌する。
イシュガルドの人々に竜の血を飲ませ、自らの軍門に降らせる、それがニーズヘッグの目論見だとフレースヴェルグは語っていた。
また、ニーズヘッグは、己の眼を雲海に投げ込もうとするエスティニアンに対して次のように語りかけていた。
「長らく、我が眼の力に触れ、さらには全身に我が血を浴びながら、よく耐えてきた」
要するに、(イシュガルドの)人間が竜の血を身に受けるというのは、多かれ少なかれ竜に接近すること、人間という存在を離れて竜という存在に接近すること、を意味するのだと思う。
竜の眼の力を用いることは、眼の持ち主の精神への接近を意味する。エスティニアンはニーズヘッグの眼を何度も使い、そのことによってニーズヘッグの精神と接近し、これに乗っ取られることになった。
ならば竜の血を身に受けることは、人間の肉体を離れて竜の身体に接近すること……を意味するのかもしれない。そんな風にも想像できる。
竜騎士の竜尾大車輪はヒートテイル、竜牙竜爪はヒートウィングなのでは?という話をぶるすこでした訳だけど、これはニーズヘッグ征竜戦で邪竜の影がエスティニアンの姿を取った時、ゲイルスコグルを使うことから想像が膨らんで、こんなことを言ったのだった。
作中の視点で言うならば、竜とイシュガルドの人間とが戦い続ける中で、竜騎士が竜と渡り合うために竜の戦い方に自らを寄せていった歴史というのもあるだろうし、竜詩戦争が終結するに際して、エスティニアンという人が仇敵ニーズヘッグとどうしようもなく近似の存在になった経緯というのがあって、それが(エスティニアンやヒカセンが自らのジョブであると認識するところの)竜詩戦争後の竜騎士を規定しているという風にも言えるだろう。
で、そういう目で竜騎士のアクションスキルなり、エスティニアンの描かれ方なりを見直すと、結構色々なことを考える。
エスティニアンは暁月で錬金術師たちに「竜血を浴びた人間」と形容されている。この「浴びる」というのはどういうニュアンスを含みうる言葉なのだろうな、と考える。
ヲタクの考えごととうめきです。二次創作の話などが出ます。