メイヤスー「有限性の後で」第二章メモ
哲学の相関主義的傾向は、思考は絶対者を思考つくせない(カント的。絶対者=物自体の存在そのものは措定されている)という段階から、思考は絶対者を思考できない(思考では何もわからないし何も言えない=物自体の存在そのものが不透明になる)という境地に自己発展し、絶対者へアクセスする権利をみずから放棄した結果、絶対者へのアクセスを信仰に譲ることとなり、狂信的言説すらも峻拒できなくなってしまった。なぜなら思考では絶対者を思考できない(何もわからず、何も言えない)から。それゆえこんにちの課題は、理由律(あらゆる存在者はそのように存在する絶対的必然性がある)と存在論的証明(Xは絶対的必然性をもつ、ゆえにXは存在する)にもとづく独断的形而上学を拒みつづけつつ、思考による絶対者へのアクセスを疑う信仰主義にも抗して、思考のうちに絶対者へのささやかなアクセスを見出さなければならない。
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そういう着地点で信仰主義への抵抗になるのか…? とは思った。
恥ずかしくて晋書の話ができない