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書店でレヴィ=ストロースの『人種と歴史』を見かけたので、買っておくかといちおう値段をみてみたら驚愕して戻してしまった。四六判、150ページ前後(文字組はゆったり)、装幀はいつものみすずな感じで3600円て正気の商売かみすず書房…。いやマジでないわ…。

メイヤスー「有限性の後で」第二章メモ 

哲学の相関主義的傾向は、思考は絶対者を思考つくせない(カント的。絶対者=物自体の存在そのものは措定されている)という段階から、思考は絶対者を思考できない(思考では何もわからないし何も言えない=物自体の存在そのものが不透明になる)という境地に自己発展し、絶対者へアクセスする権利をみずから放棄した結果、絶対者へのアクセスを信仰に譲ることとなり、狂信的言説すらも峻拒できなくなってしまった。なぜなら思考では絶対者を思考できない(何もわからず、何も言えない)から。それゆえこんにちの課題は、理由律(あらゆる存在者はそのように存在する絶対的必然性がある)と存在論的証明(Xは絶対的必然性をもつ、ゆえにXは存在する)にもとづく独断的形而上学を拒みつづけつつ、思考による絶対者へのアクセスを疑う信仰主義にも抗して、思考のうちに絶対者へのささやかなアクセスを見出さなければならない。

――
そういう着地点で信仰主義への抵抗になるのか…? とは思った。

「最初『マルハラ』と聞いたときは『マルクス・ハラメスメント』のことかと思った」という話を見てちょっと笑っちゃったのが悔しい

メイヤスーの「有限性の後で」読み始めた。フランスの哲学思想ということで恐る恐る臨んだのだが、驚くほど文章が平易だった。訳文がこなれているというより、フランス思想っぽい文章の組み立て方じゃないって感じ。

○○○○○で欲しい本ぜんぶ買えたが、ヴィヴェイロス・デ・カストロとかラトゥールとか水声社の叢書(ストラザーンとかデスコラとか)はぜんぶ現代思想的な棚に並んでいて人類学の棚には置かれていなかったのが謎だった。彼らは大きなくくりではマルクス・ガブリエルとかメイヤスーとかグレアム・ハーマンとかと同じものと扱われているようだ。

なおグレーバーは思想系(たしかポストコロニアル)、インゴルドは人類学の棚に置かれていた。

人文書に精通していればこその配置なのは理解できるのだが、人類学の棚にも置いておくべきでしょ。って悪口をここでこっそり書いてもしょうがないけど。

リアルの書店に買いに行くにしても、事前に在庫確認しておくべきだったな…。無駄足 :muzukashiine:

むかし撮った部屋の写真を比べてみたら「変わったなオメエ…」ってなった
1枚目:6年前、2枚目:4年前、3枚目:現在

ブルースカイ登録しようと思ったらSMS認証で「認証コードが送れない」とか言われて進めない。同じような人多いらしい。

アマゾンからいろいろと本を取り寄せたいのだが、この天候のなかで物流的に遠慮なく注文してしまってもよいものか躊躇する。でも早めに欲しい本ではある。

千葉雅也『現代思想入門』を読みはじめた。ドゥルーズと実在論的な話を読んでおきたいため。軽い口調は混じっているけど軽い文体というわけではないという感じで、気楽なノリだけどまじめな内容になっている印象。このような「按配」というのは実際この本、というか著者の長らくのテーマ(「動きすぎてはいけない」みたいな)でもある気がする。

ドゥルーズわかりやすくてよかったし、千葉さんおススメの本も挙げられていたのでとりあえずそれ買う。前に『動きすぎてはいけない』読んだことあるけど、もう内容はあまり覚えていなくて、「そういやそういう話していたかもな~」な感じだったので、文庫版の再読を検討中。

職場最寄りの中規模程度の書店に行ってみたが、ドゥルーズの河出文庫一冊も置いてなくて笑った(泣いた)。

「自然(単一、客観、普遍)と文化(多数、主観、解釈)」という二項モデルとは別の存在者のあり方(ヴィヴェイロス・デ・カストロは「存在論」と呼ぶ)として、たとえば「普遍的な文化と多数的な自然」という存在論を挙げる。あらゆる存在者の精神や文化は普遍的であって、どれも人間性をもつ。そして主体の視点に応じて、自然(身体)は異なる相のもとで見られる。人間は人間を人間として見て、サケをサケとして見る。サケはサケを人間として見て、人間を非人間として見る。サケにとってサケの身体は人間だが、人間の身体は非人間である。

こういう話のはず。だいたい呑み込めた気がする。少しすっきりした。

ヴィヴェイロス・デ・カストロの論文(日本語訳)をちびちび読み始めているが、読むのにけっこう骨が折れるものの、言っていることにはなるほどと思わされる。

グレーバーが提示した「現実とそれに対する多数の見方」というモデルはまさしくヴィヴェイロス・デ・カストロが批判するところの「単一の自然/多数の文化」そのものであるわけだな(もっとも、グレーバーもそのことを承知しているのだろうが)。

やっぱりドゥルーズはちょっと勉強することにする。でも評判とかをみてみるとドゥルーズの本(翻訳)そのものは意味不明らしいので入門書的なもので済ませるのが穏当。

デヴィッド・グレーバー「根本的他性、あるいは「現実」について」(難波美芸訳、「思想」1158号、2020年)。読み応えがあり、おもしろかった。

元来は存在論的転回の代表的論者であるヴィヴェイロス・デ・カストロ(VDC)からの批判に対する反論論文だが、存在論的転回そのものへの批判でもあり、かつ他者を記述することに関するグレーバーなりのマニフェストでもある。

VDCなどの文章をまだ読んだことがないから判断しきれないところがあるが、今の時点では個人的にグレーバーのほうがわかりやすいし、共感する。

一年ぶりくらいに母校来た。図書館でいろいろする。

里見龍樹『不穏な熱帯』読み終わった。最後のほうがちょっと呑み込めなかったな。それはともかく人類学の近年のアレコレに限らず、自然だとか人間の認識とは無関係に存在する存在者だとか、そういうトピックの意味もおおよそつかめたのでとてもためになる本でありがたかった。

唐令拾遺補33,000円は自分がこれまで観察してきたなかで最安値

王明珂氏の研究の評価のために近年の人類学の動向を勉強する→最近の人類学には存在論的転回・多自然主義というトレンドがあることを知る→存在論的転回についての論文を読んでみたらその主な理論的源泉はドゥルーズだと知る→ドゥルーズ読んだことないし読みたくない… ←いまこの状態

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