「定型たちは分からないところで急に怒り出す」は発達障害者がよく言う言葉ですが、定型たちは「急に怒り出す」のではなく「必死にコミュニケーションを取ろうと重ねた工夫を無かったことにされ否定され積み上げたものを壊された時に怒る」んです。
特性ゆえに過程を見落としがちな発達障害者にとっては「急に」でも、定型発達者にとっては「積み重ねた果てに」なのです。
もっと言えば「怒るほど関わってくれた人」でもあるんです。
大抵の提携発達者は発達障害者と過ごすことがストレスです。
脳の構造から違うのですから、それは仕方ないことであり、どちらも間違っていません。
ですが、ストレスになる人間から離れたいと思うこともまた仕方ないことです。
心底、発達障害者を嫌う人は静かに去って行きます。
静かに去るだけならまだしも陰口を叩くことや、発達障害者がやった失敗を面白おかしく尾鰭を付けて言いふらします。
「怒らない人だから優しい」のではなく「嫌っているから関わりたくないと思われた」んです。
そんなことも我々発達当事者は見落としがちです。
身近にいて怒ってくれる人からこそ学ばなければならない、ということも私は知りませんでした。
家族会で周囲の声を聞くことでやっと気づけました。
#発達障害啓発週間
私は当事者ではあるけれど「定型たちに自分たち発達障害者を分かってほしい」とはあまり思いません。
もちろん、早期発見や早期療育、学校現場や就労における合理的配慮や環境調整は実践されるべきです。
しかし、それは制度や公的支援の話であって個人間の思いやりによるべきではありません。
定型発達者の多くは発達障害者が思うより優しく、忍耐強く、驚くほどの試行錯誤を通して発達障害者とコミュニケーションをとっているのです。
悲しいかな、私を含めた発達障害者の多くがそれに気づけないのです。
こう思うようになったのは発達障害者の家族会に参加したことがきっかけです。
参加者の多くは発達障害者をパートナーに持つ女性でしたが、男性や職場の同僚が発達障害者だという人もいました。
そこで語れる話は当事者にとっては耳の痛い話も多くありましたが、それ以上に「こんなに配慮していたんだ」という驚きが大きかったです。
発達障害者のために細かく説明し、家事の手順や方法を協力しやすいように工夫し、報連相を徹底するためにアプリや連絡帳を駆使し……と定型同士であればいらなかった手間やお金をかけて当事者に関わる定型たちの姿に我が身を顧みて恥ずかしくなりました。
#発達障害啓発週間
実際「あれ? この人、発達障害では?」と思う歴史上の人物(悪行の方で)がいるんですが、その人について発達障害の可能性を指摘する文献を見たことが無いです。
エジソンやピカソや坂本龍馬は些細なエピソードまで「これは発達特性がプラスに働いた例です!」と喧伝されるのに「素人向けに書かれた本にも載っている典型症例から教員や支援職向けの専門書くらいにしか記述無い症例までコンプリートしていますが……」というこの人に対しては全く発達障害の可能性が指摘されていません。
逆に「コイツはこんなダメ人間www」と障害特性と思しき点がネタ化されるのを見ることが多く「あ、手柄を立てない発達障害者ってこう扱われるんだ」と自分のようなクロゼット当事者の立ち位置をよーく教えてくれます。
皆に納得してもらえる手柄を立ててからカミングアウトしたほうが良さそうですし、クローゼットにするにしても悪目立ちしない程度の能力が無いとネタ扱いされますね。
気をつけるしかなさそうです。
指摘しないのは現在生きている当事者を差別から守るため?
なら、成功例についても言わないでください。
我々は、大半は凡人に生まれ凡人で終わるのですから。
「都合よく障害名を利用するな」はプラスマイナスどちらにも言えることです。
#発達障害啓発週間
#発達障害啓発週間 なので、医師との問診の結果「検査すればグレーゾーンかドンピシャのASDか確定できるね」と言われた当事者の思うところを書いてみる。
なお「確定診断したところでできることは特に無いし色眼鏡で見られるリスクだけ増えるから大卒の学歴あって就労ができているあなたは診断しないほうが得策」という医師のアドバイスに従って確定診断も通院もしていません。
まず「ピカソやエジソン、坂本龍馬も発達障害だった!」これ一番「だから何?」ってなりますね。
画才も理系の才能も裕福な実家も無い当事者にとっては何の救いにもなりません。
むしろ「あ、それくらいの偉業を成さないとダメってことね」と諦めが先に立ちます。
この手の発言をされる時は大抵やらかした時か自分のやらかしが話題になった時なので。
それなら「色眼鏡で見られるから隠しといたほうがいいよ」と言ってくれた医師のほうが誠実さでは勝ります。
さらに言えば、この例に出される偉人は「今の基準で認められている人」ばかりですね。
40人に1〜3人くらいは発達障害の傾向がある、と言われているわけですから当然「とんでもない人」や「悪行を成した人」が発達障害者である可能性や発達特性がマイナスに働いた可能性もあるのに、それは都合よくいないことにされているんですね。
偽善ですね。
新年度なので画像変更。
仕事に追われつつも大きなミス無くやれた昨年度からもう一歩進む何度にするぞ。
「本当に(この陳情を)漁民が書いたの?(こんな教養深い文章を)」というのは、結構(最初の感想として)聞かれるなあとか気になるし、碧志摩めぐにフェミニズム的な批判が集まった時に反論として「(海女さんたち自身がフェミニズム的な視点から「いやだ」と思っていたという発言があったことに)海女さんがこんな視点を持つはずがない、フェミニストからの入れ知恵だ」というような言葉があって、わたしはそれに一番傷ついたんだよなあという。
地方で肉体労働をしている、一次産業は「言葉(教養)を持たない」「野蛮で未開な感覚しか持たない」という蔑視とか。私はそれに対して、反論の一つとして『浜辺の村でだれかと暮らせば』を書いたけど…、なんていうかどこからでもそうだが、「標準語で喋らない」「知的労働をしていない」「自然と共に生きる人」への眼差しの、その乱暴さはすごく感じる。
SNSが「エコーチェンバー」でなんか問題あるのかな。
基本的人権にベース置いて、コンフリクトが生じたときはベースに立ち戻る、って態度で話してれば似通った結論に至るのはむしろ当然で、それを「エコーチェンバー」と言われてもなあ
おはようございます。
今日は午前中だけ仕事ですが振替休日はありません。
クソです。
魔女/フェミニスト/教育/反家父長制/産まない女だけど反出生ではない/she|herの人/ #ブクログ https://booklog.jp/users/bunsouou-book / 写真 https://instagram.com/minotake155?igshid=OGQ5ZDc2ODk2ZA==