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普通の日本人、権利の主張とクレーマーの区別が付いていないのではないか疑惑。

日本人の「世間」の外で生きる人間への極端な冷たさは日本でそれなりの年月過ごさないとなかなか分からないよな。あれは差別意識や排外主義とはまた別もの。

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しかしアクティビストやアクティビズムへの極端な拒否感情を見てると、「普通の日本人」は自分と身内以外の人間のために怒る人間は普通じゃないと捉えているのだろうな。言ってみれば同じ「世間」で生きる人間以外はどうでも良いと思っているわけだ。

隣にいるおっさん二人が「動物実験や環境破壊が嫌なら服着るなそもそも何も何も食わずに死ね」とかほざいてて、うわぁこういうおっさんヘイッター以外でも本当に存在するんだなと。

"こんなこと言っちゃう俺カッケー"マインド、この国の男性をかなり蝕んでいるよね。

いい年こいて「戦争論」で「正しい方向」に考えを変えてしまう人、本当にそれまでの読書経験とかが残念すぎて残念にもほどがあるよな。アレは中学生とかで引っかかって大きくなってから赤面するタイプの本のはずなんだが…

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そういえばきのう飲み屋で三人組の中年リーマンらしきのがいて、「俺も昔はサヨクだったんだよ。正しい方向に変わったきっかけは小林よしのりの『戦争論』でry」とか話してて、そこから「悪夢の民主党政権」とか蓮舫や辻元清美への悪口雑言が続いて、「ホントにいるんだこんなの…」って逆に感心した

「大切な人を守るために」という素朴な感情すら体制に組み込む国家の暴力性については↓が参考になるかと。

自衛隊協力映画: 『今日もわれ大空にあり』から『名探偵コナン』まで amazon.co.jp/dp/4272330810?ref

現実にその渦中にいる人がこういう考え方をするのはしょうがないというか、まっとうだとは思うんよ。じっさい私も1984みたいな世界になったら国家に媚びへつらって生きていくだろうし。だからエンタメでくらい、フィクションでくらい、そこを突き破ってくれよ、飼い慣らされないでくれよ、と悲しくなるのだろうな。フィクションは現実に生きる人間からすればちょっと未来というか、希望でできてるものでもあるはずなので、それが現実に屈してるようでつらいのかも。

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戦争や国家間の争いをテーマにしたフィクション作品で、キャラクターの暴力を正当化する落としどころが「ただ自分の大切な人を守るため」にされてるのよくあるけどこれ危ないというか怖いというか、国家にとって実に都合のいい情緒というか、欺瞞じゃねえかよ~~~と思うようになったんだよなあ。大切な人を守りたいなら戦うべき相手は権力だろ…?社会構造だろ…?ってどうしても気持ちが冷める。直近だとスパイファミリーもこれで無理になった。

もしもの話、自分が一次創作をして、そのキャラクターが現政権に肯定的だったり、何らかの差別発言をする二次創作をされたとして。
私はまず最初に「そういうキャラだ」と見做されるキャラしか作れなかったことを恥じると思うな。
あるいは、そう曲解される要素が何処にあったかを振り返って、あったと思うならそれを恥じると思う。
曲解や誤読は何処にでもあるけれど、差別を否定しきれないような書き方しかできなかったとしたら、それは作者の問題かな、とも今のところは思う。

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「キャラは作者の写し身や子ども」と言うなら、それは作者が一種の自己投影をしているとも言えるわけだけど、夢女子の自己投影は散々笑い物にされるのにこっちは金科玉条になるんだーと言う冷やかな気持ちにもなる。
自己投影が悪いと言うわけではない。
そこに扱いの差があるのが気に食わないな、と言う話。
作者とキャラの距離を異様に近く見るのも正直どうかと思っていて。
「素人の創作は一種の箱庭療法」と思えば、キャラとの距離が近いのは作者ではなくそう言っているあなたでは? とも思う。

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二次創作と政治的主張の話で「自分の作ったキャラが自分とは相容れない主張してたら嫌だろう? (だからどんな政治的主張もさせるな」論法があった。
自分の場合は歴史創作が主ジャンルで、現パロが辛うじてオリキャラっぽいのだけど、はっきり言って「私とは相容れない主張してたら……? そういう奴だと思って書いているので『読解力高いな』って思う」としか言えんのよな。
その上で「誰が言っていようがクソな話だね」と批判するだろう。
自分がこの手の「キャラクターは作者の写し身や子どものような存在」に首を傾げるのは「嫌いだからこの世界の中で苦しめているんです」とか「自分の作った世界の中で便利に動いてくれています」というスタンスの創作もあり得ると思っているのが大きい(もちろん、写し身や子どものように思う人もいるんだろうし、そう思うことは悪くない)。
何にせよ、二次創作に限らずオタク文化の中で「キャラ」が神聖視されすぎているきらいがあるなとは思う。

「〜に政治を持ち込むな」の話は、要は政治ではなくて「葛藤を持ち込むな」なんだよな。

今いる権力者に大人しく従っていれば、波風も立たず、平和な世界で僕らはずっと赤ん坊のように無邪気でいられるんだよ!

第一次反抗期も第二次反抗期も要らないんだよ!いつまでも母子一体化した世界で、何の不満も持たず、お母さんの腕の中で微睡んで仲良く暮らしていたいのに!…って。

例えば「レインボーフラッグを掲げるキャラ」と「日の丸小旗を持ちながら五輪の日本代表を応援するキャラ」の二次創作が並んだ時、政治的主張と見做されるのは圧倒的に前者なんだろう。
でも、五輪応援も日の丸もどちらも政治的でないわけが無い。
コロナ禍の最中、人命よりも公衆衛生よりも優先されたスポーツイベントが政治的でないとは言わせない。
「国威発揚に使ってはならない」という五輪憲章を無視して連日速報される日本勢のメダル獲得数が政治的でなくて何であろう?
そして「応援するキャラ」というコンセプトで表現されるのは何なのか?
自覚的にせよ無自覚的にせよ、国旗や国代表を応援することが持つ政治的な意味を漂白するほうが余程危ういと思っている。

「政治を持ちこむな」みたいな話をされるとき、現政権与党側とかいわゆる「右」の政治性は透明化されるよな、ファンアートに添える意匠としてはプライドフラッグより日の丸のほうがよっぽど「政治」じゃん…と思って、アッ私が刀剣乱舞の二次創作に感じていた危うさはこれだわ、というところに着地してしまった。
政治的であるということを意識すらせず、ただ「なんかかっこいいから」というだけの理由でキャラクターに日の丸を添えるようなことを私自身もやっていた。日の丸に誇りを感じる人ならそういう表現になっても筋は通っていると思うんだけど、私はむしろ忌避感があるほうで、そういうことはあんまりしたくないし、気づいた以上もうできないなと思って離れたのでした。清光や長谷部や鶴丸のことはずっと好き。

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差別など一般的にアウトとされる表現でなければ、という留保は当然つくが、基本的には政治的なメッセージを前面に出したファンアートを発表することはぜんぜんやっていい。そもそも誰かに「やっていい」とか言われる筋合いのことでもないし、作者だろうが侵害できない。あらゆる表現には政治性がついてまわる、ということももちろんその通りだ。

そのうえで、作者が「自分のキャラクターにプライドフラッグを持たせてほしくない」という感じを漂わせているなら、この作者はプライドフラッグにポジティブな感情がないんだな、と私は邪推してしまいますね。

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キャラクターにフラッグを持たせたりシンボルカラーをまとわせたりする、メッセージ性を前面に打ち出したファンアートの話題。まず、作者が不快感を持っており、かつそれを表明したとして、それには(ファンに対する圧力にはなっても)そうしたファンアートを禁ずる力はないはずだ。
受け手に渡った作品について作者ができることはほとんどない、と私は考えており、ファンアートへの干渉も基本的にはできないという考え。

そのうえで、キャラクターに政治的な主張をまとわせるファンアートを作者としてどう思うか?と問われたとき、私は「全面的にOK、好きにやってほしい」とは正直なところ思えない。
プライドフラッグなら拙作の登場人物にどんどん持たせてほしいが、日の丸や旭日旗を持たせられたらちょっとゾッとする。そういうファンアートをやるなとは言えないが、目にしてしまったら穏やかではいられないと思う。

作品を受け取ったひとがどう思い、それに対して何を表現するかは私の干渉や侵害の及ばないところにある、と再三前置きしたうえで、私は、私と同じ方向性の政治的な主張であればファンアートで表現してもらえることはとてもうれしいし、対立する思想、たとえば現政権与党を応援する台詞などを拙作のキャラクターに言わせられたら、もうめちゃくちゃに不愉快になってしまう。

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