韓国の方が昨日12/4に投稿したもの。
Blueskyで紹介していた大椿ゆうこ事務所のアカウントによれば〈セウォル号事件、「次のソヒ防止法」のコールセンターの事件を体験しているMZ世代が友人と腕を組んで国会に行った記録〉とのこと
https://m.blog.naver.com/sunhee_28/223682296553
〈 昨夜ニュースが出て近くに住む同期たちとタクシー代を集めてすぐ国会前に行った。
(略)
同期たちと腕を組んで、もし銃声が聞こえたらすぐに飛び散るんだよ」と言ったが、「でも、みんな、正直私は戦うと思う。 ごめんね…」みんなそうだった。 私にあったのは、ただその時間にすぐ一緒に出てきてくれた同期たちに感謝の気持ち。それだけだった。 考え、また考えた。 安全な日常がいかに大切なものか。 安穏で平凡な日常がこんなに柔弱なんだ。 あんなにも帰りたい毎日だったんだ。
(略)
どうか、昨夜のことを忘れないでね。 言論と出版が統制され、令状なしに逮捕と処罰が可能になったその数時間の恐怖が、どれほどとんでもないことなのか、その蓋然性のない現実の恐怖を忘れないでほしい。〉(Papago翻訳より)
特に印象的なところを引用したけど、全文読んでほしい
かつて故・坂本多加雄が「たとえば新年参賀の際に、天皇が観衆のなかに姿を現し、観衆がこれに歓呼をもって迎えるという劇的な場面そのものが、日本国を可視的に現前させていると考えれば良い」(『象徴天皇制度と日本の来歴』1995年)と書いたが、大事な舞台装置を忘れている。その群衆を統制し・ぐるりと取り囲む、国家権力の暴力装置の存在がその「劇的な場面」から消されている。
豊島岡墓地前で「斂葬の儀」をとりかこむあれこれをしばらく見物していたが、制服と私服とモーニング(少数)で溢れており、通りがかった幼児が「おまわりさんのお祭りがあるの?」と手を引くお母さんに聞いていたのが秀逸だった。暴力装置の祭典だ。
1983年と1986年の間には、深くて暗い河がある。たった数年なのに、今では信じられないくらい「かっこいい」とされるものが変わったと繰り返し弊社社長は言う。それはアンタが中学生だったからではないのか……
1986年に、いとうせいこう&TINNIE PUNX『建設的』が出たとき、「えっそっちに戻るの? 「建設的」なほうへ戻るの?」と戸惑ったと弊社社長は言っていた。でも「東京ブロンクス」に「デッド・テック」とかでてくるから、80年代前半から継続してはいるのかと思ったらしい。なるほどねえ。
「戦略考えたの俺ですから」
恥ずかしい名言ではあるが、どこかに元ネタがあって、その反復くさい感じがする。
編集業。하야카와 타다노리 。『神国日本のトンデモ決戦生活』(合同出版→ちくま文庫)『原発ユートピア日本』(合同出版)『「愛国」の技法』(青弓社)『憎悪の広告』(共著、合同出版)『「日本スゴイ」のディストピア』(青弓社→朝日新聞出版)あり。 真理が我らを自由にする&労働が我らを自由にする。