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R sekiguchi さんがブースト

現実の出来事を直視すると「正しいこと」をしなければならなくなる場合がある。たとえば暴行の現場に出くわしてしまったとき。その際、止めに入ったり警察を呼んだりすることが正しいことなのはわかっているが、実際にそれをやるのには意外とパワーが必要で、我々は結構な割合で見なかったことにしてしまう。しかしそれでも直視せざるを得ない場合、わかっていても正しいことができない自分を守るためにその状況をコンテンツ化してしまう。

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実際に自分の身近なところで起きている現実の出来事を直視するのは意外と難しく、かなりの胆力が必要なことで、しかし我々人間は幸か不幸か現実逃避をすることができてしまう生きものなので、直視しなければならない現実の出来事をエンタメとして認識・消費することで逃避してしまうことがある。

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たとえば「がんばってる障害者」がたくさん出てくる24時間テレビ的なものに感動してるうちは、戦争関連のコンテンツをいくら見たところでその悲惨さ・罪深さを理解することはないだろう。なぜなら、どちらも「かわいそうな(状況で必死にやってる)他者」としか認識していないので、自分とは遠いところで起きてる無関係の出来事だと思っているから。その状態でいくら知識を得たとしても、自分の感情を刺激してくれるコンテンツ=エンタメとしか思わない。

ふだん「LGBTはいないんじゃなくて、それをあなたに明かせてないだけ(明かす義務もないのだから聞き出すことはしちゃダメ)」というようなことを言っているのだから、それをセクシュアルマイノリティのみならずさまざまな属性にも適用して考えなくてはならない。

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内心の自由、信教の自由、といったことが理解できていないとも言える。そしてそもそも「すでに差別がある」状況において、該当の属性を持つ者は内心・信教を他者に明かすことなどできやしない。にもかかわらず「自らの内心・信教を明かさなければ差別に対する批判ができない」というのであれば、それはどん詰まりでしかない。カミングアウトしなければ批判ができず、カミングアウトすれば存在それ自体を危険とみなされ差別される、あるいは批判そのものがカミングアウトと勝手に推測され得る、そういう状況でなにができるというのだろうか。

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そもそものところで「人権」という概念を理解していないということなのだろうか(言い換えが見つからないので「人」権と限定した書き方になってしまうけど)。

たとえば安倍にもトランプにも植松にも等しく人権はあり、存在そのものを否定されることはあってはならなくて、もちろんそれを気持ち的に受け入れられないことはあるだろうけど、人権擁護=反差別を実践するならば、そこは切り分けて考えなくてはならない。行為に対する批判は、存在の否定を伴わずにできるものなのだから。

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お前と同じ属性を持つ奴が悪いことをした!だからお前も危険だ!排除すべきだ!排除されたくないなら属性を明かせ!なんだ!明かせないのか!明かせないということはそういうことなんだな!なに!やはりお前はその属性を持っていたのか!危険だ!排除すべきだ!

これが差別の論理(のひとつ)であって、どの属性に対しても適用してはならないわけなんだけど、適用すべきではない属性と適用してもいい属性があると思っている「反差別」とはなんなのだろう。

トランプとマスクがスペースでおしゃべりしてる、ということを無邪気におもしろがれる生活を送ってみたかったな。

「なんか最近流行ってるっていうか、流行りそうな感じあるから、とりあえず記事あげとくか!(アクセス数も稼げるし)」みたいなの、まさに(悪い意味での)インフルエンサーしぐさなんだけど、それを反差別の文脈でやらかしてることに無自覚なの最悪でしょう。

いま中小取次がやっていることをトーハンという大手取次がやり始めることは、仕入れやすさの点で本屋としてはありがたいことだけども、出版業界の生態系的なことを考えると確実に「破壊」なので、ついにここまできたか......という感じ。記事内ではなんかいい感じのことを言ってますけど、実態は「中小取次の食いぶちを奪いにいかないとやばい」だと思います。

yomiuri.co.jp/culture/book/art

めいろま(にかぎらずインフルエンサー的な存在)の本は、一般的な書店の場合「売れ筋配本」みたいなもので勝手に入荷してくるのでほんとうによろしくない。即返品してもまたやってくる。「必ず1冊は在庫がある状態にしといてね、なくなったら勝手に補充するよ!」という仕組みになっているから。ゆえに、めいろま(などのインフルエンサー)の実態を知る書店員がいない本屋には、こういった本が大量に並ぶことになる(知っている者がいても諦めてしまうことはある)。めいろま、ひろゆき、堀江貴之、ダイゴ、内海聡、橋下徹、百田尚樹......etc。特に新書やビジネス書のジャンルは「売れ筋配本」で棚を維持している書店が多いので、こういうのがたくさん並んでいる。

千葉も揺れてたの?ぜんぜん気がつかないままお店でぼーっとしてた......。

なんか思いがけず「しんどい」って言葉が出てきてそれを書いたら実際にしんどくなってきちゃったな。もう今日は働いてるふりしてよう。

だからこそ、厄払いというものを「自らの人生を物語ること」という自分流のやりかたで実践するのであれば、憎悪に飲み込まれたものになってはならないと思う。憎悪は差別を生じさせ得るのだから、憎悪の発露でしかないようなものを「物語ること=厄払い」として実践されてしまったら、ただでさえ「危ないもの」「差別の根本原因」などと誤認されている宗教・信仰の実践者からしたら、何重にも害でしかない。

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バットではなくラケットで打っているのを「野球漫画」として主張することは全否定できないが、実際に野球をやってきた者から指摘を受けるのは当然である。野球のやり方が長い歴史の積み重ねで作られてきたのと同様に、宗教・信仰の場におけるありかたと手法も専門家や実践者の積み重ねによって作られてきたものなのに、表層だけ使われて頓珍漢なことやられていることへの「それは違う!」が五月蝿い指摘として認識されてしまいがちなのは、搾取や差別と言って然るべきだと思う。

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宗教や信仰(にかぎらずさまざまなことにおいてだけど)について我々はあまりにもぼんやりとした認識しかしていないし、にもかかわらずそれらのモチーフを「いいとこどり」して自分流に使っていることが多いように思える。自分流に活用することを全否定はできないが、プロや専門家的な者から指摘を受けたなら、少なくとも拒絶するべきではない。これがスポーツとかなら納得するのに、宗教・信仰に関わるものになると反論したくなるのはなぜなのだろうか(「野球はバットで打つのであってラケットじゃないよ!」が納得できない、みたいなイメージ)。

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たとえば虹色のモチーフを性的マイノリティの包摂といった意義を知らずに使うことはありえるし許されるべきことだが(極端な例を出せば子どものお絵描きとか)、レインボーフラッグの存在を知っていてかつその意義の「いいところ」を借用しつつおかしな使い方をしていたら(たとえば「思いやり」「みんななかよく」みたいな使われ方)、それに対して批判(「反差別は道徳ではない」)が生じるのは当然のこと。専門家や当事者の協力を得てそのモチーフを使ったのならなおさら、え?私の話聞いてました?となる。

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