「自らの人生を物語ることをある種の厄払いととらえることは可能かもしれない」という箇所について補足。ここはいわゆる神社神道における「厄」の概念(本厄とか)とそれを払うこととは別に、作家自らの(ある種の信仰として)「物語ることで厄を払う」というありかたも存在するし、それを否定することはできないが、そうだとしても憎悪に飲み込まれた物語りになってしまってはならない、ということ。
それにくわえて、厄払いという概念についての我々の認識は往々にして神社神道におけるそれの影響を受けているし、その概念や形式を借用して自らの物語りに活用するのであれば、それに適うだけの敬意を払う必要がある(それがなされなければ文化盗用や搾取であるといった批判を免れない)。
「人は自らの人生を物語ることによって救われる」というジャネット・ウィンターソンの言葉を私は信じている(し、それが岸本佐知子の解説によって書かれている『灯台守の話』が店名の由来のひとつになっている)のだけど、その試みが失敗すること、特に他者を巻き込んだうえで失敗することもあるから気をつけなくてはならないとも思っている。それはおそらく憎悪に飲み込まれたときに起きるもので、自らを救うためのものであったはずの物語が、いつしか無自覚に自らを苦しめている存在への復讐へと転化してしまっているのだろう。憎悪を動機にすること自体は否定できないが、それをコントロール=乗りこなしていくのは困難で、我々は容易くそれに「突き動かされて」しまう。
小池百合子の始球式骨折、実際の映像見たけどスポーツ経験者なら投げ途中&投球後の身体の動きでどこが怪我したことが明確にわかるし、なによりも「ふだんから投球をしていない」「72歳」を「平地ではない傾斜のあるマウンド」で「靴底に凹凸のない滑りやすい靴」を履かせて投げさせるのは危ないので、本人含め周囲の危機管理能力のなさを露呈していてキツイ。性質的にも目立ちたがりなんだから、張り切っても大丈夫な環境を整えてあげないと......。
https://www.mbs.jp/news/kansainews/20240805/GE00059399.shtml 荷台じゃなくてハンドルバーにつけるおもちゃだけど、ダイソーで100円(+税)で売ってるあひるちゃん、今ブームになってる。近所の男子高校生はクロスバイクのハンドルバーに3色並べてる。かわいい。
ビニール袋の取手にダサいシールを貼るのと同様に、むしろ窃盗されないようにするためのアヒルちゃんでもあると思うんだけど......(本人は単におもしろいからで付けてるだけだろうけど)。
高校生の親や学校の先生とかが「変なものつけてるからだ(ふつうじゃないことするな)」と責めてしまわないことを祈るばかり......。
https://www.mbs.jp/news/kansainews/20240805/GE00059399.shtml
差別加担の指摘を受け入れられない理由のひとつが「なぜ自分のSOSは無視されて、SOSの中にあった無自覚な差別の批判だけされるのか」というものなのかもしれず、そうなると必要なことは「あなたのSOSは受けとめた。それとは別軸であなたの無自覚な差別も改善していきましょう」という態度を鮮明にすることなのだけど、その切り分けをすることが難しい場合もある。特に、ある者が属性Aの差別に反対するなかで属性Bを無自覚に差別していて、それを属性Bにある者が切り分けをしつつ批判をする、という場合。
つまり当事者(どうし)による話し合いがうまくいかないことが多いのはこの切り分けが両者ともに難しいからで(なぜならどちらもSOSだから)、あいだに入って切り分け担当をする第三者が必要になる。しかしその切り分け担当はどっちの側にも寄り添うことになるため、ゆえに「そっちの味方につくのか」的な感情をぶつけられることも多く、結局三者共倒れとなることもある。でもその「味方につくのか」も不安=SOSであり、容易に切り捨てることもできない。
また、差別を指摘したときにそれを認められない相手のことを「知性がないから」「盲信(妄信)してるから」などの理由でもって片付けてしまうことが多いけども、差別行為の発露がときに「(どうにもできない自らの苦しみについての)SOS発信」が形を変えて表に出てきていることもある、ということも念頭に入れる必要がある。
これは、反差別目的の批判をしたときに「でもあなたの言説のなかには別の差別に加担するものがありますよ」という指摘を受けた際に、それを受け入れられない場合がある、といった例の説明にもなるような気がしている。つまり「なぜSOS発信が受けとめてもらえないのだ」という感覚が生じ、ゆえに批判を受け入れられない。それは知性がないからでも盲信(妄信)しているからでもない、ということも当人ならわかるはず。
反差別には常に自省が伴うものなので、差別をおこなう者を「無能/低脳/馬鹿/知性なし...etc.(だから差別をするのだ)」と断じ、無自覚であろうとも他者化(=反差別の指摘をする私はそうではない)をした時点で道を踏み外し始めている。つまり我々はみな例外なく「道を踏み外し始めている」のであり、踏み外しては戻り踏み外しては戻りを繰り返す必要があるとも言える。
この矛盾を引き受けながら実践し続けねばならない反差別は、その点において「どこにもない場所であるが、そこを目指し続けている間はどこかに存在する(が、たどり着いたと慢心した瞬間にディストピアへのルートがひらかれる)」ユートピアと類似する。
スポーツの世界はあくまでも(観客側にとっては)エンタメでしかないのだから、不公平さ含めて楽しむのがよい。ではスポーツに人生をかけてる選手は?と思うだろうが、当人たちだって文字通り「負けたら死ぬ」ということはなく、その後の人生はどうにかこうにか続いていくのだ(我々が大学受験に失敗してもそれで終わりではないのと同じように)。
仮に本当に「負けたら死ぬ」ような状況にあるのなら、それはスポーツとは別軸でどうにかすべき問題が生じているということなのだから、スポーツはいったん置いといて問題解決に向けて動くべき(メダル取らないと政府に殺されるとか兵役免除されないとかは明らかに政治の問題)。
本屋lighthouseのナカノヒト。おぺんのおともだち。