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そもそも「言論のアリーナ論」というものの存在を知っているチェーン書店員がどれだけいるのか。低賃金で働かされている者が人文書(基本的に高価)を読む余裕があるのか。さらにそもそも、その本に書かれていることが差別言説であることに気がつけるチェーン書店員がどれだけいるのか。チェーン書店の現場を回しているのはパートやアルバイトの非正規労働者である場合が多い。当然、かれらの「知」が足りないのをかれらの努力不足のせい(だけ)にしてはならない。そのうえで、書店現場の実際は、「それが腐ったキャベツであることを見抜けない店員」によって「無造作に置かれている」というものであり、それは決して福嶋の考えるアリーナではないはず。つまり、「ヘイト本を認識したうえで闘わせる」という福嶋のアリーナ論を実践できている書店など、極少数である。

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とりあえずMastodonのみで投稿するけど、後日どこかでまとめたものをここ以外でも公開すると思います。もちろんこのMastodonでの投稿をほかのSNSとかに転載するのもOKです。

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メモ書き的に脈絡なく書くこともあるので、スレッドにはするけど話が飛び飛びになることもあると思います。とりあえずいま思い浮かんだこと。

八百屋で、お客さんが新鮮なキャベツを見分けることができるようになるためにあえて腐ったキャベツを隣に置く場合、
・このキャベツが腐っているということを明示する
・悪臭によって気分が悪くなる者が出るのを防ぐためにクリアケースに入れるなどの対策を施す
この2点が最低限満たされているのなら、それは言論のアリーナとして機能する(かもしれない)。
しかし実際にはキャベツの状態は明示されず、防臭対策もされずに置かれている。誰も買う者がいなかったとしても、悪臭で体調不良になる者がいればそれは安全対策の不備である(それが腐っていることを認識しているのならなおさら)。

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5/18に向けて「言論のアリーナ論」が不十分である理由を不定期に書き連ねていきます。当日どういう話をするかという自分のための整理と、当日会場に来れない&音声アーカイブを買う余裕のない方にも私がなにを話した(いと思った)のかがわかるようにするためです。そもそも、言論のアリーナ論について肯定的に語る言説自体が、マイノリティにとっては「刃」である場合もありますらね。この対談イベントを聴きに来れるということ自体が、「気にせずに済む者」である証なのだということ。

R sekiguchi さんがブースト

そして、「愚行/加害 をしたとしても、その人の人生を終わらせない社会」であってほしいと同時に、その傷つけられた当事者が「許さないことを許される」社会でもあってほしいなと思う。その社会としての在り方と、当事者の個人個人の血が止まらない経験との間で動き働くことが、「その他大勢」の役目でもあると思ってる。

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言論のアリーナもセーファースペースもどちらもユートピア的なものなので、達成可能な目標ではない。しかしだからこそ達成を目指してベターを積み重ねなければならないのだけど、前者を掲げてそれで満足してしまってもエリート感が出てしまうし、なにもしなくてもいいので、楽なほうに流れていく。

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言論の自由を「強者のみが参加できる場」にしてしまっていることに気がついていない者らが考える、言論のアリーナ。これが出版業界の(なかの知的エリートの)スタンダードです。

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書店を民主主義の場=言論のアリーナとして成立させるのならば、その前提条件としてセーファースペース=誰もが参加できる場所にしなくてはならないのだけど、その意識を持ってアリーナを作ろうとしている者などほぼいないのが出版業界の現状でしょう。言論のアリーナ=言論の自由とセーファースペースは対になる概念ではない。後者を成立させ(ようとし)なければ前者は成立しえない。

From: @gucchi_penguin
fedibird.com/@gucchi_penguin/1 [参照]

BT 言論のアリーナ論が悪用される典型例ですね。

R sekiguchi さんがブースト

おいおいおいおいおい

さすがに店員を呼んで抗議した。
するとたまたまその店員が棚の担当者だったのだが、「新刊を並べてるだけで政治的意図は全くない」と強弁して開き直った。「いや明らかに偏ってるでしょ。せめて両論併記にしなさいよ。このトランスヘイト本が平積みされているだけで傷つく人がいるよ」と言ってもTなる書店員はしらばっくれるばかり。本社にメールします。ちなみに有隣堂。

いろいろあって朝からくさくさしていたが、遠足行きっぽいバスの中から20人くらいの小学生がいっせいに手を振ってきたので、振り返したら大盛りあがりしてくれたので最高になった(他人に手を振って振り返してもらうゲームでもしてたのだろう)。おれは武道館ライブを成功させたアーティスト。

「まじない」と「のろい」はどっちも「呪い」なんですね。

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この呪文のいいところは、自分がつらみなときに唱えるとこれを見た者にも呪いの効果があらわれるというところです。

R sekiguchi さんがブースト

もちろん、「私たちはこの国を愛している」と言うことでしか紡げない思いや抵抗できない側面もあるはずで、全てをナショナリズムだと批判するつもりはないです。
それでも、人権運動において権利を取り戻す主体は市民であって国家ではないということ、国家や家など共同体への愛着を主軸にした(あるいは利用した)運動が歴史的に何に回収されてきたのかということに、私たちは運動の中で何度でも立ち返る必要があるとは思う。

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R sekiguchi さんがブースト

郷土愛もマクロなナショナリズムなのだけど、地元への愛着とか馴染みのある場所への好意みたいなものは私も持っているので、自分もナショナリズムを内面化していることを自覚しつつ、それでもナショナリズムに回収されないでいたい。
国家にせよ家にせよ、それらは人が集まったことで作られた共同体でしかないけど、その共同体に権力が付与されてしまっている以上、そうした共同体そのものへの支持や愛着は、国家ならナショナリズム、家なら家父長制というように、簡単に権威主義や全体主義に転んでしまうよね。

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R sekiguchi さんがブースト

国家を支持するとか国家を愛するとか、かなり怖い言葉なので、デモのシュプレヒコールで散見されるようになってきたことに危機感ある。
弾圧されている国や地域に連帯することや、その土地の自治権/独立/解放を支持すること、そこに暮らす人や動植物の権利を支持すること、その人々からの意見や声明を支持することと、「特定の国家そのものを支持したり愛したりすること」は、全く別の行為だと思っている。
国家とは最も支配的な権力を保持している排他的政治共同体なので、権力の塊かつ支配の象徴みたいな「国家そのもの」を支持したり愛したりしてしまうならば、そしてそれを参加者たちで共有するのであれば、その運動はナショナリズムまっしぐらなんじゃないのかと。
「We love 〇〇(任意の国名)!!」のようなシュプレヒコールは、(それが自国に向いていようと他国に向いていようと)かなり愛国運動の様相を呈しているので、「どうしてもこの運動にナショナリズムを持ち込みたい」という意図が無いのであれば行うべきじゃないし乗るべきでもないと思う。

トランスヘイト関連 

シーソーブックスの件、断片的な情報から推測でものを言うのはアレだけど、ポップ作成者と思われるアカウントの過去投稿を見ると、件の本がゲンロン運営のシラスで茂木健一郎に紹介されたから読んだ、というスタートのようで、かつそのあと書いた自分の書評もシラスで高評価だった、それが自信になってポップも、というような流れになっていることが予測できるんですよね。

ゲンロンは「中立なオレ冷静」アピールする傾向のある媒体で、茂木はセクシュアルマイノリティ全否定の日本保守党結成宣言の本に応援団のひとりとして寄稿しちゃってるし、みたいな背景を知っていれば、そこを入口にするのは危ないということがわかるのだけど......。入口の入り方、大事ですね。

今月の売上がふるわないからマリーンズも7連敗するのか、マリーンズが7連敗するから売上がふるわないのか。

荻窪の本屋Titleがウェブサイトで毎日更新してる「毎日のほん」でとりあげられるのは、出版業界的には非常に名誉なことなのだけど、いかんせん「毎日のほん」だから明日には別の本になっていて、いまさっき見つけた私がみんなに自慢できるのはあと1時間あまりで、それ以降は狼少年になってしまうのが、この「毎日のほん」の罠です。

twitter.com/title_books/status

この帯はあれですね、本来の帯ではなく現代新書フェアとか用に巻かれた臨時帯の類ですね。

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