近代国家大日本帝国が海外拡張し破綻していく過程での「日蓮主義」が果たす特別な役割は結構強調されるところではあるが、この時代様々な宗教的なもの、オカルト的と言っていいものが暗躍している。これは日本に限ったことではなく西洋世界でも理性的なものに対する信頼が失われ、シュタイナーの人智学のように神秘性を帯びたもの、カルトと言って良さそうなものへの傾斜が思潮として生まれている。ナチズムのオカルト的自然観はよく言及されるところだろうし、洋の東西を問わず神秘主義への接近はグローバルな普遍性を持っていると言えそうだ。
「同時代の日本では、宮沢賢治の思想にシュタイナーとの共通性がみられる。生前は無名であった賢治の作品は、日本がファシズムへと傾斜する時代に広く読まれるようになった。」(安冨歩『複雑さを生きる』岩波2006年、p.173)
日蓮宗と言うよりも神秘主義という視点のほうが案外自然なのかもしれない。
「そもそも嘆きとは何か。まず嘆くとは、湧き上がる悲しみを全身で受け止めようと試みることだろう。嘆く者の震えは、みずからの肉体を言葉にならないものの媒体に変えようとする・・・」(柿木伸之 「嘆きからのうた ―― 声と沈黙の閾で ――」) http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/2381
ベンヤミンが言う「伝達する言語」ではない言葉のもっとも起源的な使い方とは、言葉が行き詰まるところで、「沈黙は、一種の真空状態を作りだして、人間の、悲しみと区別のつかぬ「気がかり」を引き寄せずにはいない」(川村二郎『アレゴリーの織物』講談社文芸文庫2012年、p.350)というような、臨場する他者の「こころ」を誘い出す働きのことなのだろう。
「(進化心理学において)コストが、進化の歴史の中で非対称的であった場合、コストのかからない誤りをする方に判断が偏る傾向が進化する(略)不確実性が大きければ大きいほど、この偏りが大きくなる」(東京大学「なぜ現代人には虫嫌いが多いのか?」)
面白いのがこの偏りの傾向が遺伝する性質のものかどうかということだよね。遺伝するものだとすればその結果論=進化論も成り立ちそうだが、そうでないとすれば文化論的な説明が必要になってくる。フロイトの原父殺しは、家族関係の中で個体発生が系統発生を反復するように行われるということだ。
何の話かと言えば、家族という群単位の中で養育者に対する絶対依存と自立という関係の構造が、ある程度普遍的だろうということだ。それがエディプス・コンプレックス、去勢ということ。その意味でフロイトの心理学は、古代ではなく幼少期に遡る考古学だと言える。
死ぬ間際のただの年金じじいだよ(Asyl)