(続き)
・どうしてああもたくさん雨が降ってるんだろう。夜の土砂降り。
・語り手が「記録者」を自称しながらけっこう行動して絡む。そのくせ、ぜったいその場にいなかったシーンも平気でとくとくと語るあのやり方は、やっぱり19世紀のロストテクノロジーだろうか。取り戻してもいいと思う。
★ 決定的な出来事(公園)が起きるスピード。
・↓のような、ここだけ取り出したらなにも成り立っていないこんな会話が作中では成り立っているの、おかしくない? まあ、作中でも成り立ってないのかもしれないが…
《「ニコライ・フセヴォロドヴィチ、この人の話はほんとうですの?」リーザはやっとこれだけ言うことができた。
「いや、嘘だ」
「何が嘘なんだ!」ピョートルはぎくりとした。「それはまたどういうことだ!」
「ああ、わたし、気が狂いそう!」リーザが叫んだ。
「まあ、すくなくともわかってくださいな、この人はいま気も狂わんばかりなんですよ!」ピョートルは懸命に叫んだ。》第三部 第三章 2
・せっかく読んだし、次に読み返すのが何年後になるかわからないから、この機に関連本も読もうかしら。
ドストエフスキー『悪霊』の感想(江川卓訳、新潮文庫の旧版):
・カラマーゾフの次に面白いのは『悪霊』、という印象だけ残っていたけど、カラマーゾフほど読み返しておらず、通して読むのは今回が2回め? 大学以来? だとしたら印象が残っているだけでもすごいな。
・文庫の裏表紙や紹介記事なんかにある「スタヴローギンは」「ピョートルが」「秘密結社の」「殺人」的なあらすじはあまりにミスリードなのでなんとかしたほうがいいと思う。あれを“本筋”ととらえてしまうと、ステパン先生とワルラーラ夫人の話が“背景”とか“枝道”になってしまう。
★ あんなに太くて長大な枝道があるものか。
・とはいえ、ステパン先生(ピョートルの父)とワルラーラ夫人(スタヴローギンの母)の役割を、ふたりの枯れてるようで生々しいロマンスにとどめずに全体のなかで考えるとなると相変わらずよくわからない。
・とにかく群像劇すぎる。上巻の混乱を見るにつけ、あんなてんやわんやを人は「構想」しようとしてできるものなんだろうか。ドストエフスキーにはできたんだけど。あきれる。
・下巻の真ん中あたり(第三部 第二章 3)で火事が起きてからの雪崩れっぷりもいっそうすごい。そこまで周到に張りめぐらせた何本もの伏線が…というのでもなく、堤が決壊するような。伏線も呑まれちゃう。
明日せっかくこんなイベントがあったのに、この体調では行けないので無念すぎる。
https://twitter.com/okayamabungaku/status/1759000997740024210
でも1日の半分くらい寝て『悪霊』は読み終えた。
《「これはちがう、ちがう! だめだ、これはまるでちがう!」》第三部 第六章 1
明日はこれがリアルタイム視聴できるかも。
マスクにしても手指の消毒にしても2020年の4月と同じ調子で続けていたのに新型コロナにかかっている(2日め)。なんというかこう、写経でもするかという気持。
ブログを書いた。去年の9月から先週までかかった読書日記について。でもまとめとかではない。
(57)「途中」を書くこと:
https://outofthekitchen.blog.fc2.com/blog-entry-876.html
それで論文の実物をのろのろ読むと、当該短篇も『見てごらん道化師を!』も未読のわたしにさえ、アップダイクの手法がどれほど変態的に凝っていたかわかる。わかったつもりにしてもらえる。最後の一文は鮮やかすぎて鳥肌もの。
https://twitter.com/h_takebe/status/1627122342987198464
この仕掛け、この人が「発見」しなかったら作品の中に埋もれたままだったのでは? と思うとこっちまで動揺する。
生前のアップダイクにタイムマシンで送り届けて読ませるべき。
竹部春樹さんというアメリカ文学者の、1年前の連ツイをたまたま見つけて読んだら面白かった。僥倖。
ジョン・アップダイクが短篇に込めたナボコフ的(ナボコフっぽい/ナボコフにからめた)トリックを読み解く。
卵をたくさんもらったので検索したが、「ギリギリ攻めるぜ」じゃないだろう。
カフカの没後100年であり、安部公房の生誕100年で、『百年の孤独』が文庫化されるのか。
趣味は引用