私は一時期、学会発表のスライドに音楽をつけるということを始めたことがあって、これは00年代初頭の欧州でとても評判になった。音楽の力で、無味乾燥な科学的成果がたちまちドラマチックになってしまうのである。それは雑誌のインタビュー記事にさえなった。
そのときに気がついたことだが、人間の脳は実にうまくできていて、音楽の雰囲気やリズムと、コンテンツをほぼ自動的に脳内で調整し、シンクロさせて全体を受け取る。音楽を精密にコンテンツと合わせる、という努力はあまり必要ないのである。それを観客が勝手にやって「感動」してしまう。にもかかわらず、「あんなにうまく合わせるなんて!」と、一種の天才扱いになる。
これは、作る側にとっては密かにとてもラクな話なのだが、作用、として考えたときには人間は音楽にとても騙されやすい、ということになる。
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polyphiaの曲はtrapのリズムを使っているのにグルーヴがないのは何故なのか、というようなニュアンスのコメントをしばしば目にしていて、私も言われてみればそうだな?と首を傾げていたが、そういうことか…。
大島渚つながりで、
大島渚賞審査員、黒沢 清(映画監督)のコメントを思い出す。
https://pff.jp/jp/news/2021/02/oshima-prize2021_result.html
「いろいろあったけど、よかったよかった」となる映画が多すぎる。
本当にいろいろあったなら、人は取り返しのつかない深手を負い、社会は急いでそれをあってはならないものとして葬り去ろうとするだろう。
人と社会との間に一瞬走った亀裂を、絶対に後戻りさせてはならない。あなたがささやかに打ち込んだクサビは、案外強力なのだ。
よかったよかったと辻褄を合わせる必要なんかどこにもない。
「たかが映画だろう」と周りは言うかもしれない。
しかし映画とは何だ?ぼんやりとみなが想像するものだけが映画ではない。
表現の極北から見出される鋭い刃物のようなクサビで、人と社会とを永遠に分断させよう。これら二つが美しく共存するというのはまったくの欺瞞だ。
このような映画製作に挑む若者を探している。それは大島渚が切り開いた道であり、決して閉ざしてはならないと思うから。
「あなたの感想」や「お気持ち」が無価値で利己的なものとして嘲笑され、「ロンリ」だけが尊重に値するかのような風潮が本当に嫌いだし、危険だと思う。そういう人たちが「ロンリ」のつもりで出してくるものは、たいてい単に屁理屈であったり、デマだったりする。要するに自分の都合の悪いことを否認するために「感想」「お気持ち」という名称で相手の言葉を無効化しようとするのだ。
感想や気持ちとは別の軸で動かなければいけない場合も勿論あるけど、感想や気持ちがとても重要なときもあり、両者が複合的に存在しているのが日常であり社会だ。「あなたの感想」をシェアすることの豊かさを知っているから読書会のような場が古くからあるのだし、「お気持ち」を共有して癒しや気付きを得る機会がなければ、一人で絶望的、あるいは暴力的な思考に追い込まれてしまうことだってある。
だいたい、人間は現に思考と感情をもっているのだから、「感想」や「気持ち」をまったく無視した論理というのはそれこそ机上の空論である。「それってただの屁理屈ですよね」なのだ。
他者の感情や思考をないがしろにするのは論理的でもなんでもなく、不誠実なクソ野郎にすぎない。ああいう人たちがやってる不誠実であればあるほど〝勝てる〝ゲームをさっさとやめないと、ますます愚かで悲惨な社会になっていく。
女性を消費するようなコンテンツが批判されるとき、作品に喚起されて具体的な犯罪が誘発されることを危惧しているというより、作品が体現している価値観や認識が現実社会の価値観や認識に影響を与えることを危惧している。
女性を客体化、モノ化する視点が受け入れらられることによって差別が助長・矮小化される、暴力が暴力と認識されなくなる、犯罪が犯罪と思われなくなることを問題にしていると思う。
例えば、強引なキスから恋が始まる展開が違和感のないものとして描かれることで、性的同意が軽視さる/性暴力が暴力と認識されなくなる、児童(未成年者)を拉致した犯人との"恋物語"が"純愛"として受け入れられることで現実に起きている児童への搾取が矮小化されてしまうなどなど。
つまりフィクションが個々の「犯人」に与える影響というより、ひろく社会の価値観・認識に与える(与えている)影響に対しての危惧であり批判だ。
まずはそこをきちんと別けて考えないと意味がないと思った。
SNSより実生活で話をするタイプだが、相手が何を考えているのか私が一方的に知りたいだけで、自身の主義主張をぶつけたり、相手と分かり合おうなどとは思っていない。理解に苦しんでいるので言語で説明して私に教えてほしい、という感じ。相手を変えられるとは思わない。
そもそも関心の無い人に関心を持たせるのは至難の技だし、そんな技術は俺にはない。自分の政治的ななんやらは基本的には自身の精神衛生のための排泄だという自覚をもってやっている。人はそう簡単には変わらない。
『獣の奏者1』徹頭徹尾政治と外交、他者化についての話だと思ったが、驚くべきはこの物語が日本で人気があるという事。政治的なものを忌避し、憎んですらいる人が大多数のこの国で、政治的ファンタジーが好まれる妙。本当に理解に苦しむ。ヒロインであるエリンが日本に実在していたら、確実に潰されるタイプだと思う。あ、だから人気があるのか。
趣味:映画鑑賞、読書、陶芸、旅行
美術系高校・学部卒→デザイナー→経理財務