"たとえば、自分の目の前で愛しい人が死んでしまうかもしれないとき。自分の命を捨ててでも相手を守りたい。それは自己犠牲の美しい愛とも捉えられるけれど、逆説的に見ると自分が何もせずに相手を死なせてしまったら、そのあとの自分の苦しみのほうが嫌なのかもしれない。そもそも、相手を助け“たい”と思う気持ちは「I want」ですからね。そこはエゴとも言えるんですよね。"
【俳優・鈴木亮平さんインタビューVol.2】宮沢氷魚さんや阿川佐和子さんとのぞんだドキュメンタリーな撮影現場の裏側とは? https://precious.jp/articles/-/38912
自分が誰よりも最初に死にたいとよく思うので、とても身につまされる話だった。最近、犬が死んで鬱っぽくなっているんですが、結局のところ自分の身の回りの命を大切に思っているというよりはただ単に自分が喪失の悲しみに直面したくないだけなんじゃないかっていう。そういうタイミングだったのもあり、かなり『エゴイスト』にはやられてしまいました。
高校が定時制だったから外見に関する校則がまったくなくて真っ赤なツナギの人もいれば金髪で巻き髪の人もいたけど全然普通に学校として成立してたので、生徒の外見を規制したい人たちがなにを恐れてるのかよくわからない
例えば「侍」という呼称をなにも気にせず受け入れて喜べる事、例えば日系2世選手を俺達の選手として内の存在として何も気にせず喜べる事、もちろんそういうルールだからということはあるがその応援する人達が住む社会ではそうではないものがあったりするんだよね。
例えば実生活において、わたしはここで生まれて育って生活しているけど俺達のなかには入れて貰えない異物だし、サッカークラブのサポーターとして俺達に入れると思って活動していたけど、結局は外国人だから俺達の中には入れなかった。一方では外国籍の人間が俺達として賞賛されている。もちろんその理由付けは色々考えられるし出来る。
ただ、そういう事があるのを知ってか知らずか気にせず喜んで応援して「ただそのスポーツを純粋に応援してます。」「あんま目くじら立てるな。」というのであれば、「幸せなんですね。純粋でいいですね。」って私は拗ねちゃう感じがあるかな。
むむむ。🤔
しかし彼ら自身がつらいこと、自分に関係する暗い話、政治の問題について、まともに向き合う勇気がないからなぁ。「皆んなに愛される、明るい日の当たる側に自分はいるんだ」と思ってないと、融けて消えちゃうくらいメンタル弱いですよ、彼ら。躁的防衛の塊。ネガティブな感情には全く直面できない。
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日本のミュージシャンはもっとこの暗い世相を反映させた曲を作ってほしい。つらい想いをしている人たちを音楽で元気づけてあげようとか、90年代以降の応援ソング文化のせいで変な使命感を持ってしまっている人が多い。「人々に感動を、勇気を与えたい」とか真顔で言ってしまいがちなスポーツ選手にも似たメンタリティだと思う。そういう思考が何者かに作り出されてしまっていることをもっと自覚すべきだと思う。 https://toot.blue/@manabe_atwork/110066273126593947 [参照]
RT @Petrol0110
自分(たち)さえ良ければいいという外部がない人たちだから。そういう人しか政治家にいないのは日本人の標準が、外部がないからです。 https://twitter.com/yoshilog/status/1636607122292215808
「日本の〇〇が世界に認められて嬉しい!」という声を、そこかしこで聞くし、その気持ちは分からなくもない。「人間椅子」が海外でブレイクした時、僕もそういう気持ちになったから。しかし一方で、日本人は「海外」の事に関心が無さすぎるのは何故だろうとも思っていた。無論、僕自身も含めて。
そう思った理由も「人間椅子」がきっかけ。『針の山』という曲が「メタリカ」の楽曲に自分たちの歌詞を載っけた「替え歌」だったからだ。それに、彼らは「ブラックサバス」に傾倒している事もハッキリと言っている。
一方で、僕は去年「マキシマム・ザ・ホルモン」に愛想を尽かした。「サマソニ」で「リンダリンダズ」というアメリカのバンドの「カタコトの日本語」を「いじった」からだ。それ以前にも海外フェスで「日本語が分からない連中に日本語を教えたった」という動画をYouTubeに上げていて、観客を「アホばっか」と言っている姿を見て、「あの事件は起こるべくして起きた」と思った。僕は今、彼らを心底軽蔑している。
僕は今日、野村玲央氏のブログを読み直して、日本人の「差別意識の低さ」と共に、海外に目を向けようとしない自分を大いに恥じた。
https://leoleonni.hatenablog.com/entry/2022/08/21/064513
"ビジネスの役に立つ、自己責任社会、コスパ重視、そんなメッセージを強化するインフルエンサーとメディア。これらの要素が教養と結びついていく流れは、全ての学びが個人の金儲けに回収されていくことを意味する。学びの喜びといった情緒的な意味合いも、知を社会に還元するというノブレスオブリージュの視点もそこには存在せず、経済的なメリットのために深い思考プロセスや守るべき倫理が放棄される。ファスト教養の行き着く先に待っているのはそんな社会像ではないだろうか。"
「実業家・本田圭佑」を取り込む自己啓発ビジネス 「自己責任で稼いだもん勝ち」は何が問題か|FINDERS https://finders.me/articles.php?id=3290
サッカー選手がMr.Childrenの『終わりなき旅』を愛聴し、そして誤読もしているという話は示唆的。
ありきたりな人間性やくだらない社会性を捨てるからクリエイターとしてのある種の偏った能力が得られるという信仰のようなものがあると思う。でもこれは戸愚呂弟の考え方で、幻海に言わせればあんたは逃げただけ。
「あなたの感想」や「お気持ち」が無価値で利己的なものとして嘲笑され、「ロンリ」だけが尊重に値するかのような風潮が本当に嫌いだし、危険だと思う。そういう人たちが「ロンリ」のつもりで出してくるものは、たいてい単に屁理屈であったり、デマだったりする。要するに自分の都合の悪いことを否認するために「感想」「お気持ち」という名称で相手の言葉を無効化しようとするのだ。
感想や気持ちとは別の軸で動かなければいけない場合も勿論あるけど、感想や気持ちがとても重要なときもあり、両者が複合的に存在しているのが日常であり社会だ。「あなたの感想」をシェアすることの豊かさを知っているから読書会のような場が古くからあるのだし、「お気持ち」を共有して癒しや気付きを得る機会がなければ、一人で絶望的、あるいは暴力的な思考に追い込まれてしまうことだってある。
だいたい、人間は現に思考と感情をもっているのだから、「感想」や「気持ち」をまったく無視した論理というのはそれこそ机上の空論である。「それってただの屁理屈ですよね」なのだ。
他者の感情や思考をないがしろにするのは論理的でもなんでもなく、不誠実なクソ野郎にすぎない。ああいう人たちがやってる不誠実であればあるほど〝勝てる〝ゲームをさっさとやめないと、ますます愚かで悲惨な社会になっていく。
コンドームを茶化す46歳の幼児性に俺は耐えられない。
丸くなって、保守的になって、つまらなくなる「大人」にはなりたくないとずっと思ってきたけど、ここ2、3年、成熟を拒否した人間たち(主にシス男性)の体たらくを見て、ああはなりたくないなと心底思っている。