レズビアンやゲイの場合は、それ自体で恋愛的指向+性愛的指向といった意味を持ち続けるとしたら、代わりに引き算がおこなわれる。「ゲイでアロマンティック」「ゲイでアセクシュアル」というように、持たない要素を引くことになる。
すると、LGBは素直にそのまま並列表記が成り立たなくなるだろう。
本来は、Aceが「もたない・ない」ものを細分化して説明するより、これまで「好き」をザルにしてきたヘテロ規範こそが真っ先に問われなければならない。
ヘテロのいう「好き」は、何も「恋愛的指向」と「性愛的指向」に大別されるだけではない(そもそも両者が厳密に分けられはしない)。
例えば、家族になりたい、ずっと見ていたい、手を繋ぎたい、キスしたい、もっと喋っていたい、セックスしたい、電話したい、死に際にそばにいて欲しい、などの無数の「好き」が、一貫して同じ性別の相手に注げると思うヘテロ規範こそが、一体何のプロパガンダなのか?と問われるべきだ。
この細分化をセクマイのコミュニティを起点として、その内部のアイデンティティ確保にために行われるだけでは結局のところ生きづらい。全然ダメだ。
さて新作です。スペクトロライトと霧入水晶のダブレットストーンのリング。タフで強くて格好いい、一筋縄ではいかない面構え。ワイルドな石をホワイトゴールドの額縁がきりりと引き締めます。地金はK18WG。一点もの。#Albizia_jewelry
インド(ベンガル語圏)から中国のワールドコン(世界SF大会)にリアル参加する人がいるそうです。ウェブジン/出版社のカルパビスワの編集さん。
インド出身で欧米在住の参加者は見たことあるけど、インド在住者は今までオンラインでしか参加していなかった気がします。
近年は、活動が活発なチリから参加している人もいるし、ワールドコンが徐々に本当にワールドワイドになっていることが喜ばしいです。
その一方で、日本から若手で参加する人が全然いなそうのが懸念だったりとか、世界的に参加者が高学歴・高収入者に偏りがちだったり、欧米+オセアニアとスペイン語圏以外は男性の参加者が多かったりと課題もまだまだあります。
別のSNSで生理休暇の話が流れていったのを読みながら考えていたのだけれども、生理休暇はもちろん、生理痛だのPMSだので真剣に調子が悪い時期が毎月何日かあったりする身体のことを(例えば業績評価のようなものをするにあたって)考えて欲しいわけですが、それに加えて、こう、ちゃんと決定的に生理をなくす方法がないんですかね?比較的安価で、ピルを飲み続けるとかではなくonce and for allの感じで、安全な形で、できないんですかね?みたいなのは、生理がくるたびに思います。
男性の大半に生理があるみたいな状況だったら、ずっと前に科学の進歩だか何だかでそういう方法がきちんと確立されていたのじゃないかしらね〜みたいなことも思います。
というか、私の場合、10代の頃はまだ漠然と感じていただけだったけれど、20歳過ぎる頃には自分は生涯出産を選ぶことはないという確信があった(子どもを育てる可能性はあるしそれは嫌ではないけれども「自分が産む」ことはない、と思っていた)ので、なんというか、自分にとって不要だとわかっている機能のために何を我慢させられているのだろうか、的な。
オープンソースの戦争や虐殺などの調査を行っているべリングキャットから、心的外傷を避けるための方法が紹介されています。
調査をするわけでなくても、トラウマになる画像や映像から距離をとるための方法は参考になりますよ。
第三回かぐやSFコンテスト講評座談会
無事に終了しましたー。
#かぐやSF3
今日の講評座談会のために、297作品を全て読み直してスポーツの種類について統計をとりました。
一番多かったのは、【陸上・レース】でした。
2位以降はなんだったのか、傾向をどのように分析したのか、は講評座談会のアーカイブで聞いてね。
アーカイブチケットは10日14時まで‼️
第三回かぐやSFコンテスト講評座談会、登壇者の皆様お疲れ様でした。
選外佳作の拙作「夏の夕暮れ、タナトスの子どもたち」にも触れていただき嬉しかったです。(フェティッシュによる一点突破感が如実に伺えるコメントをいただきました)
コンテストを続けることについてのお話も聞けて良かった。
#かぐやSF3
近刊のお知らせ。
左右社さんのnoteで連載中の「装うこと」についてのエッセイ「かわいいピンクの竜になる」の最終回が更新されました。
https://note.com/sayusha/m/m842139537e32
そして、エッセイの書籍化が決定しました。
ロリィタや少年装、ドレス、メイクや香水など、装うことについての愛や苦しみ、思索や矛盾や怒りや幸福などを綴ったちょっとばかり怒濤の勢いのエッセイです。
note連載では6回分読めます(1回につき1万字!)が、書籍化の際にはそれと同量の書き下ろしが収録されます。
続報をお待ちくださいませ。
来週の月曜日は、第三回かぐやSFコンテストの講評座談会です‼️
コンテストへの参加が応募者の皆さんにとって一つのステップになれるように、できるだけ具体的な講評ができればいいなと、現在内容を考えながら応募作品を読み直していますー。
事前質問も受け付けます!
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🏆第三回かぐやSFコンテスト講評座談会🏆
📆10/9 (月・祝) 14時〜
🎟800円
🖥Zoom (アーカイブあり)
四名の審査員とともに、選考の基準、応募作品の傾向、選外佳作や気になった作品などについて話しながらコンテストを振り返ります。
ジェンダーやセクシュアリティについて教えていると学生から人生相談を受けるというのは教員あるあるらしいけれど、学生もきちんと相手を見ているので、私は指導性や一緒に仕事している学生以外からそういう相談をされた経験はほとんどない。
で、先日珍しく相談をされて何かと思ったら、「ジェンダーを勉強していて、興味もあるけれど、自分がマジョリティだから責任があるという罪悪感が動機の一つとして大きい、勉強しながらとても辛い」みたいな話で。
「マジョリティには責任がある」というのはそれ自体は念頭におくべきだけれども、それは罪悪感を抱くべきものではないと私は思っている。これは構造の話であって個人的な罪の話ではないから。
それに、罪悪感が出発点になると、押しつぶされるか、どこかでマイノリティへの恨みが溜まってしまうか、自分の罪悪感の解消が無意識的に先立ってしまって厄介なことになるか、のどれかに陥りやすい気もする。
性の政治との関わり方としては、やっぱり「自分」の問題関心から出発するので良いと思う。
このあたり、以前から少し気になっていたのだけれど、真面目な若い人ほど袋小路に入り込みがちで、難しい。
→
ある人が何らかの点でマジョリティ属性であること自体を批判したり糾弾したりするのはフェミニズムの政治が目指すものでもクィアの政治が目指すものでもないと私は思うのだけれども、とりわけSNSなどで小さく切り取られた鋭利なメッセージだけが一人歩きしがちな状況が続いてきた中で、特に若くてまだ感受性も鋭い人たちを中心に、そういう風な「マジョリティ属性それ自体に罪悪感を覚える」形でメッセージが伝わってしまっている側面は確実にある気がしている。
私はずっとTwitterを使ってきたので意図的ではなかったにせよ結果としてそのようなメッセージ伝達の一端を担った責任はあると思っているし、さらに言えばそれに意識的になったのもこの数年だし、気がついても介入の仕方がわからなかったし、というのもある。
ただ、「マイノリティ認定をしたらその途端にマイノリティ側が道徳的・倫理的に絶対優位に立つ」と思い込んでいるかのような発言を、差別側、被差別側、権利擁護側のいずれにおいても目にすることは多くなっているし、なんかちょっと一度そのあたりを整理して共有していく方法はないんだろうか、とは思う。
連載中の漫画「レタイトナイト」明日8~9話公開です。今は1話から全部無料(アプリとか登録とかも必要なし)で読めるので、もしよかったら是非!こういうの好きそうな友達などがいたら、教えてくれたらうれしいです。
https://kayamatetsu.com/wp-content/uploads/2023/10/image.png
こちらにも。
「叫び」を執筆した経緯について書きました。
https://tmblr.co/ZKfNiReXdE_J4i01
手を離れた作品に言及することは基本的に控えています。が、関わる人の顔が見えるところがかぐやSFコンテストの好きなところのひとつなので、今回は例外的にやってみました。
アイコンはIkumiさんが描いてくださった。