新しいものを表示

noteに創刊号の執筆者略歴を公開しました!目次とあわせてご覧ください。note.com/jem_site/n/n0e7d2a9f9

「ユリイカ」松岡正剛特集の山尾悠子さんの文章、「遊」の連載「今月私が買った本」の話が……。二十歳そこそこの頃その存在を知って国会図書館にコピーしに行ったときに、文章はなくてほんとうにリストだけで、びっくりした記憶があります(澁澤龍彦や筒井康隆の連載分などが全集に未収録なのも、リストだけだからでしょうか)。

大学生の頃の自分は山尾さんのリストを凝視していて、金井美恵子+渡辺兼人『既視の街』は世界でいちばん好きな本のひとつです。寺山修司+落田洋子の絵本『だれが子猫を切り抜いた?』とかもすごく好き。(なお、渡辺兼人にはまったく同じタイトル、収録写真は異なるといういでたちで『既視の街』という写真集が2010年代に刊行されました。稀少本かも?)

わたしは村上春樹のいい読者ではないのですが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』はいまだに油絵画家・落田洋子の装画のヴァージョンが好きです。と、「遊歩性の蝶」(F・ポンジュ)のようにおしゃべりをしているととりとめがないので今夜はこの辺で。

文学のトピックでなくても、一行も読んだことのない書き手が多数を占めていても、Times Literary Supplementのpodcastをひたすら聴いています。本数は少ないようですが、最近はGRANTAのにも手を(耳を?)出しています。アメリカの作家も電話で出演することがあって、Times Literary Supplementの方だと、邦訳のある作家としてリディア・デイヴィス、ミランダ・ジュライ、エドワード・ケアリーなどが出演する回なども最近聞きました。リスニングの勉強にもなるので一挙両得です。

大島豊さん、当誌に寄せてくれた原稿やブログ記事だけでなく、SFファン交流会のメルマガに以前寄せていた連載「月韻閑談」もすさまじくinformativeかつ面白いと思っています。復刻する価値あると思うくらい。滅茶苦茶勝手な方言ですが、大島豊さんと橋本輝幸
さんの海外SFをめぐる対談とか仮にあれば読んでみたいです。

『jem』創刊号執筆者一覧(五十音順):秋草俊一郎、阿部大樹、あわいゆき、石川美南、礒崎純一、大島豊、木海、岸谷薄荷、木村夏彦、鯨井久志、焦陽、白川眞、菅原慎矢、高山直之、垂野創一郎、西崎憲、パウ・ピタルク・フェルナンデス、平山亜佐子、ヘレン・ホラン、堀田季何、増田まもる、マヌエル・アスアヘアラモ、ミミ・シェン、山口真果(トーキョーブックガール)、山本貴光、劉佳寧、ローレル・テイラー、渡邊利道、王子豪

ようやく情報公開いたします!来たる12/1(日)、『jem』の創刊号を刊行します。文学フリマ東京39で初頒布、ブースは「つ-11 (西3・4ホール)」今回の特集は「未来視する女性作家たち」、また小特集として「東方幻想の世界」。note上で目次を公開しました。 #文学フリマ東京 note.com/jem_site/n/n3cc9e7d87

読書量と審美眼につねに敬服している知人から、海外文学を刊行している出版社に持ち込みをしていると聞いてなんだか励まされた。「木村さんも紹介したい作品があるなら翻訳やりましょうよ」とも声をかけてもらって、いまは手を出す余裕はないけどとても嬉しい。

まだ一部しか情報を出せませんが、今回の雑誌、アメリカ、イギリス、中国、スペイン、ベネズエラ(生まれ)の翻訳家、研究者にも寄稿いただいています。国内外の翻訳家、研究者が今後もっと交流を深めていったら、絶対文化は豊かになると信じています。

incurably coy and irresoluteな人間ではあるけど、今後、作家さんにインタビューするとか、ウェビナーとかやっていきたい…。

みんな英語のスピーキングはどう練習されているんだろう。自分の場合、客観的な指標としてはIELTSのspreakingのセクションで7.5、英検1級を取得しており、italkiでディスカッションをしたり休日に海外の友達とちょこちょこ遊んでいたりする。それでも、母語の方が話せるなあというトピックはやはりある。ウェブ上の記事などを教材にすることもあるけど、お気に入りの教材などある方がいましたらぜひ教えてほしいです。

これ、本当に雑誌完成したとしたら、手伝ってくれた方に一生頭が上がらないと思う。

アンナ・ゼーガース「死んだ少女たちの遠足」。吐き気を催したくなるくらいの傑作。ドイツで実際に起きてしまった二十世紀最大の悲劇について、「真正面から間接的に描く」という本来ならそれは語義矛盾であってぱっくりと二つに裂けてしまうはずのものが、文学という限定されたことばの使用が許されるこの領域では特別に成立が許される。感想を書く時間がないのが残念だけど(いま書いているこの文章は感想ではないので)、自分にとっては忘れないだろう体験になった。

実は、「高校生にも役立つようなわかりやすい自由英作文の参考書」を書くのが人生の夢のひとつだったりします。

「言葉の階段を上がってゆく。言葉がひとりでにくり返される。かなしみという言葉の上を歩いていた、かなしみ かなしみ かなしみ かなしみ かなしみ。一歩一歩、言葉をひとつずつ踏みしめながら歩く。が、やがてわたしは、自分が歩いていないのに気づく。同じ言葉が続くのは、言葉が動いていないからだし、わたしの足も動いてはいない。言葉は死んだ。その言葉の死を嘆いて、その言葉の中に息づいていた感情の死を嘆いて、苦しみがやってきた。まわりの景色は変わらず、曲がり角にも行き当たらない。道が、世にも不思議な力でわたしを引きよせ、おかげでわたしはいつ右や左に曲がったのか、まったくわからなくなっていた。わたしは言葉の妄想の上を、はだしで歩いていた。(中略)言葉のエスカレーターが足もとを、川のようにさらさらと流れてゆく。自分が起こしてきたいくつもの反乱、その上をわたしは歩いていた。足の下で小石がぽんぽん破裂する。いちばん大きな破片の飛んだ方向に歩いてゆけば、戻れるのかもしれない。けれどいつだってわたしにはわかっていた。行ってみてもきっとそこにあるのは、野ざらしの白い骨、砂にとける亡骸、腐りかけた笑顔だけだし、そして目玉には冷えた溶岩のように、無数の穴が空いているのだろう。」
(アナイス・ニン「迷宮」『ガラスの鐘の下で』)

E2746 – スペインにおける読書習慣と書籍購入(2023)の概要║カレントアウェアネス・ポータル
current.ndl.go.jp/e2746

目覚めたら、イラストレーターさんが雑誌の表紙のために寄せてくれたとても素敵な絵がメールボックスに届いていた。ああ、自分で絵が描けなくてよかった。そこに予期せぬ出会いがあるんだもの。

高校2年の頃は一日最低5時間インターネットをするという不思議な生活で、おかげで授業はほとんどぐっすり寝ていた。ブラウザの履歴はもう残っていないけれど、そのころに読んでいた本やマンガはどのサイトを通して手に取ったのか鮮明に思い出せるものがかなり多い。「徳川夢声戦争日記」←唐沢俊一のウェブ日記、「孤独のグルメ」←sawadaspecial.com、清水義範「発言者たち」←「B館」、倉阪鬼一郎「内宇宙への旅」←「見下げ果てた日々の企て」、「闇の左手」←「猫を起こさないように」などなど。いましろたかしや黒田硫黄にはかり知れないショックを受けて、「OHP」の「強くオススメ」漫画はどれも読むつもりでいた。

自分の場合、20代前半でもう読書という行為を諦めている。万巻の書物を読破する、どころか一冊読めば九九九九冊の読めない本が行く手に現れる。そして渡邉一考が書くように、「それは突然に断ち切られる」、つまり読書家にとって死というかたちで読書の個人史は不意打ちのように途絶する。平凡さというおのが運命を受け入れたうえで、それでも大事にしている、いや大事にしたいのは凡庸かつ稀少な「縁」というもので、そのときどきにつきあっている知人に縁のある本は「呼ばれた」のだと思って優先的に手に取る。そばにいる魚を素手で掴み損ねたように取れないことも多いのだが、手に取れた本は不思議なくらいに読んでみてよかったと思えるものが多い。

It has turned out that I am far from good at proofreading. I cannot help but shout, say, “うおー”, “うわー” or “吸い込まれるー!” when I am thoroughly absorbed in a story or an article. How on earth could it be that such an expressive and emotional person is wary enough to detect typos, misspellings, grammatical errors and so forth?(I’m writing this in a half-jest way!) 😂

作ることに心血を注いでいますが、宣伝方法をあまり考えられていません……。宣伝というもの一般にたいする苦手意識があるかも。

古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。